宋の外交政策:対金⑩金の滅亡 | 徒然草子

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1.金滅亡前の国内情勢
1208年、章宗が亡くなった。彼は祖父世宗の施政方針を継承し、彼なりに内治に力を傾注していたが、しかしながら、その一方でタタール部などのモンゴル系部族や南宋の侵攻といった外患、そして、黄河の大規模決壊、女真族の貧窮化や契丹人の根強い反金感情などの内憂に悩まされた。
しかしながら、章宗自身の中国文化への傾倒は社会の奢侈的傾向の増長を生み、社会的矛盾をより深刻なものにする一方で、文化面では絶頂期を迎えた為、この時代において金朝を代表する文化人が数多く生まれ、後に金朝を代表する文人と言われる元好問が金滅亡後に編纂した『金史』「文芸伝」において吐露している様に金朝の漢人知識人にとって金朝は誇るべき自分達の王朝となっていたのである。
さて、章宗の後、世宗の子である允済が章宗の遺志を受けて帝位に就いた。彼は後に廃位されたので、衛紹王と呼ばれている。彼は暗愚な皇帝であったと言われているが、同じ頃、モンゴル統一を果たしたチンギス・ハーン率いるモンゴル軍の度重なる侵攻に対して十分に防御することができず、特に1211年のチンギス・ハーン親征による侵攻に際しては金軍は大敗を喫して壊滅的打撃を受けた。更に国内では旧遼の帝室一門出身の耶律留哥がチンギス・ハーンに呼応する形で中国の東北地方で反乱を起こして遼王を名乗り、モンゴルに服属した。
1211年の対モンゴル防衛に失敗した右副元帥の胡沙虎は敗戦の責を負わされるのを恐れて反乱を起こすと、衛紹王を捕えて幽閉した上で殺害し、1213年に章宗の異母兄である珣を擁立した。彼が第8代皇帝宣宗である。
擁立された宣宗は、早速、胡沙虎を殺害し、モンゴル対策に取り掛かったが、しかしながら、モンゴル軍の侵攻を喰い止めることはできず、河北、山東、山西地方がモンゴル軍に占領された上、女真族の故地である東北地方も耶律留哥が先導したモンゴル軍が征圧し、更に首府中都(北京)もモンゴル軍によって包囲された。かかる事態に対して宣宗は、1214年3月、チンギス・ハーンに先帝衛紹王の娘(哈敦公主)や金帛を献じて和睦を乞うた所、チンギス・ハーンもこれを容れて軍を引き揚げた。
その後、金朝は、首府中都(北京)はモンゴルに近く、防衛が困難であるとして、同年5月、首府を中都から汴京へと遷し、翌1215年には軍戸100万以上をも河南へと遷した。同年、チンギス・ハーンは当該遷都とそれに伴う一連の行為をモンゴルに対する背信行為であるとして再び侵攻を行い、中都を征服すると、金領の北半分をモンゴルの支配下に置き、将軍ムカリに当該地域の経営を委ねた。
その後、1219年、チンギス・ハーンが西域遠征に乗り出した為、モンゴル軍の圧倒的な勢いの前に滅亡寸前まで追い込まれた金はつかの間の小康状態を得ることができた。しかしながら、かかる小康状態も対モンゴル関係に限定されたことであり、宣宗は軍事力の強化を図るべく国庫収入の増加を見込んで交鈔(紙幣)の増刷を行ったが、この事が国内に深刻なインフレを招いてしまった為、経済、社会は大いに混乱し、漢人豪族や契丹人貴族らの間において金朝を見限る動きを増幅させることとなったのである。

2.金、南宋、西夏三国間の戦争
南宋は、上述の金の情勢を踏まえて、1213年には金への歳貢を停止した。南宋の歳貢停止に対して金はモンゴル対策が急務だった為に手が回らなかったが、モンゴル軍の金侵攻が停止すると、1217年、南宋の和約不履行を責めるべく、金は南宋に対して戦端を開いた。とは言え、金は南宋との戦争に対して全力を以って対処することができなかった為、忽ち戦局は膠着状態に陥った。と言うのは、金は北方の対モンゴル防衛もさることながら、1214年より西夏からも攻められていた為、対西夏戦にも兵力を振り向けなければならなかったからである。かかる時機に金に服属していた西夏が侵攻してきた所以は、西夏も金と同様、モンゴル軍の侵攻に悩まされていたので、金に対して支援要請を行ったものの、金側がこれに応じなかった為、西夏側から戦端を開いたものであった。
1214年、金に対して戦端を開いた西夏は、早速、南宋に対して挟撃の申入れを行ったが、その当時、金と戦争状態には無かった南宋側はこれに応じなかった。しかしながら、1219年に改めて西夏が南宋に対して挟撃を申し入れた所、今度は金と戦争状態に在った南宋はこれを受諾し、西夏とともに金を挟撃することになったのである。
金、南宋、西夏の三国間の戦闘が膠着している最中、1223年、金の宣宗が亡くなった。そして、その後を宣宗の子哀宗が金の第9代皇帝として即位した。その翌年の1224年、南宋でも寧宗が亡くなり、時の宰相史弥遠の主導で寧宗の養子であった理宗が南宋の第5代皇帝として即位した。そして、その年、勝敗を決しないまま、金は南宋に対して和睦を申し入れた所、史弥遠もこれを受け入れた為、金・南宋間の戦争は終結し、又、西夏の方も西域遠征から帰って来たチンギス・ハーンらのモンゴル軍の侵攻に再び曝されたので、金と和約を結んだ。かくして、金、南宋、西夏の三国間の戦争は終結した。

3.汴京陥落
西域遠征から帰って来たチンギス・ハーンは1225年に本格的な西夏攻撃を開始し、1227年、終に西夏を滅ぼした。西夏滅亡後、1229年にチンギス・ハーンが亡くなったが、その後を子のオゴタイ・ハーンが継承し、父の遺命を受けて本格的な金討伐に着手した。
1230年、オゴタイ・ハーンは金への進撃を開始した。対する金側は西方は城塞潼関を軍の主力を以って固め、北方は黄河を以ってモンゴル軍に対しようとしていた。城塞潼関の堅固さを知っていたチンギス・ハーンはオゴタイ・ハーンに対して潼関を回避する様に遺命していたと言われており、オゴタイ・ハーンはモンゴル軍を潼関を避けて山西方面を進む軍と陝西方面を進む軍に分かち、汴京へと進ませた。具体的には、先ず、将軍トゥルイ率いる軍が陝西方面を攻略して潼関を中心とする金軍の主力をひきつけておき、その間に山西方面をオゴタイ・ハーン率いる本隊が攻略し、黄河を渡って汴京を攻めるというものであった。この作戦は成功し、次々と金軍を撃破したモンゴル軍は1232年に遂に汴京を包囲するに到った。
モンゴル軍が汴京を包囲する中、哀宗は食糧が尽きた汴京を脱出し、黄河の対岸である河北地方に逃れようとしたが、失敗した為、帰徳(河南省商丘県)へと脱出し、次いで蔡州(河南省汝南県)へと逃れた。その後、モンゴル軍は金軍の西面元帥崔立の内通によって汴京を陥落させると、金の帝室一門を捕え、宗族は殺害し、皇太后、皇后、皇妃らはモンゴル帝国の根拠地であるカラコルムへと連行した。

4.金滅亡
汴京陥落に先立つ1231年、モンゴルは南宋に使者を派遣して汴京攻略の為にモンゴル軍の領内通過の許可を求めたが、南宋はこれを拒絶した。しかしながら、1232年に再びモンゴルは南宋に使者を派遣して同盟を結んで金を挟撃することを提案した。当該提案は史弥遠の甥である史嵩之を通じて朝廷に伝えられ、朝議において諮られた。ほぼ同じ頃、金も南宋に対して対モンゴル戦の為の同盟の呼びかけを行っていたが、対金攻略は南宋建国以来の課題であった為、朝議はモンゴルとの同盟に傾斜していた。かかる流れに対して趙范は嘗ての遼討伐時の金との同盟に関する歴史的経験を踏まえて反対論を唱えたが、朝議の流れを変えることはできなかった。かくしてモンゴルと同盟してモンゴル軍の金攻略に協力することになったが、攻略成功時に河南地方を南宋が領有するという条件の他は明確な協定を締結しなかった。この事が後にモンゴルと南宋との間の対立の種となったのである。
さて南宋は、1233年、将軍孟珙をして南宋軍2万人を率いさせ、モンゴル軍の蔡州攻略に参加させた。モンゴル・南宋連合軍に包囲された蔡州は3ヶ月後には食糧が尽き、遂には老人や捕虜などを殺害してその肉を喰らうという惨状に到った。かかる事態を受けて哀宗は帝室一門の出である元帥の承麟に強いて帝位を受諾させて帝室の血統保持を託すと、連合軍の城内突入を機に自殺した。続いて、大臣や将軍等数百人も哀宗の後を追って自殺した。一方、帝位を譲られた末帝承麟は群臣とともに哀宗の死を悼んでいたが、彼自身も乱兵の手にかかって殺され、遂に金は滅亡した。
建国以来の宿敵とも言うべき金は上述の通りに滅亡したが、しかしながら、続いて南宋が対峙しなければならなかったのは、モンゴルであった。遼や金の場合、国家として宋に敵対してはいたが、一方でこれらの国々は中国文化に対して深い理解を示し、中国の伝統的な法体系や礼制などを参考にしながら、国制を整えたから、一定の相互了解の基盤を共有していた。しかしながら、続いて対峙しなければならないモンゴルの場合、征服過程において広くユーラシア大陸の多様な文明文化に接触してきた関係もあり、必ずしも中国文化一尊という立場ではなく、その上、モンゴル民族固有の慣習法に強く執着していたから、相互了解の基盤を共有しているとは言い切れなかった。その意味では、南宋はこれまでに無い極めて厄介な相手と対峙することになったと言えるのである。