徳治主義と法治主義 | 徒然草子

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一般的に儒家は徳治主義を唱え、法家は法治主義を唱えたと言われている。通常、徳治主義とは帝王などの統治者による道徳による徳化の政治であり、法治主義とは国家が定めた実定法による統治として理解されている。しかしながら、中国思想史の研究者である加地伸行氏によると、かかる両者の理解は通俗的であり、誤っていると言う。
加地氏によると、儒家の徳治主義においても実定法は必ずしも軽視されていた訳ではないと言い、儒家が法治主義に対して警戒していたのは、実定法重視の結果、齎される実質的不正義たる脱法行為の横行であると言う。そして、儒家の言う徳治主義とは実定法の廃棄を意味するのではなく、先述の実質的正義の内実を構成する共同体的秩序の重視を意味するのであり、又、かかる共同体的秩序がその社会の道徳の内実をも構成していると言う。
加地氏の指摘が正しいとすると、儒家と法家の対立は実質的正義と実定法によって体現されている形式的正義の対立を意味することになる。
そうすると、始皇帝の秦帝国において、何故、法家が重視されて儒家が軽視され、又、漢帝国において武帝の時代に至ってようやく儒教が国教となったのかが、幾分か見えてくる様に思える。
孔子らが想定していた共同体秩序は周代の封建制を前提としており、その通用する地理的範囲も主要な都市部とその周辺域に限定されていた。しかしながら、春秋戦国時代に突入し、封建諸邦の合併が進むと、従来の秩序における地理的限定は取り払われるとともに、旧来の共同体的秩序は身分制の崩壊などの社会構造の変動も加わり、実効的な広域的な統治を可能とする方法が必要になってきた。かかる状況下において登場してきたのが、法家が称える法実証主義的な実定法重視の法治主義であり、国家が定める実定法は旧来の秩序が想定していた地理的限定に制約されず、国家の統治域において適用可能だった。それ故、始皇帝が中国を統一した時、皇帝がその国域において等しく帝権を及ぼそうするならば、法家の法治主義以外に方法がなかった訳であり、又、始皇帝の時代、皇帝やその帝権といった、その当時、新奇な統治的地位や権限に関する中国における共通了解というものは根付いていなかったし、又、かかる広域統治の出現という事態は儒家にとっても想定外だったから、何ら為す術もない彼らが軽視されるのも、当然だった訳である。
とは言え、その後、秦が滅んで前漢が成立し、その統治が次第に安定してくると、皇帝の地位や権威も中国における共通了解として根付いてゆき、皇帝を頂点とする国家や社会の新たな共同体秩序というものが次第に構築されていった。そして、儒家の方も武帝の時代になると、ようやく皇帝を頂点とする統治形態に対応し得る理論を用意することができる様になり、前漢後期になると、これらの理論のテクストとなり得る経典群を整えることができる様になったのである(古文説の出現)。
ところで、形式的正義と実質的正義の対立というテーマは古くて新しいテーマでもある。話は近現代に飛ぶが、カール・シュミットの『法学的思惟の三様式』(1934年)という著書があるが、私は上記の加地氏の説から、ふと同書に出てくる法実証主義と具体的秩序思考というものを想起してしまった。形式的正義と実質的正義、それは換言すると、合法性と正当性の対立でもあるが、これ以上、話を膨らませると、留め止めも無いので、当テーマは此処で終えることにする。