国生み~大国の存在の記紀総括99-スサノオへの記述1- | 記紀以前の日本史を探す

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古事記や日本書紀、俗に偽書とされる歴史書、古代アジア各国の歴史書などから古代(紀元前1000年頃~)日本列島の真実の歴史を考えて行くブログです。

□スサノオの処遇

 

古事記:

 「是於(これお)八百萬神共而(に)議して
  速須佐之男命於(お)千の位の戸を置くを負わせ
  亦 鬚(あごひげ)及び手足の爪を切り
  神、夜良比夜良比(やらひやらひき:意味不明)を

  抜くを令(うなが)す)」

 

日本書紀第七段本文:

 

「然るに後、諸(もろもろ)の神、素戔嗚尊而(に)於いて
 科した千座置戸?之(これ)を以って罪が過ぎたので歸(かえ)る

 遂に徵(しるし)を促し、抜いた髪を以って
 其れを使い罪を贖(あがなう)に至る

 亦 其の手足の爪を抜いて之(これ)贖(あがなう)と曰(い)う

 已(すで)而(に)降り逐(おう)のを竟(おわ)る)」

 

一書第二:

 

「已(すで)而(に)素戔嗚尊於(お)
 其の秡具(はらへつもの?)で責めて罪而(に)科す

 是(これ)を以って手の端に有る棄てる物は吉、
 足の端の棄てる物は凶(あ)しき

 亦 唾を以て白の和幣(ぬさ)と為し、
 洟(はな)じるを以て靑の和幣(ぬさ)と為す

 此れ用いて解除を竟(おわ)る

 遂に之(この)神を以て逐(おい)
 之(これ)理(ことわり)で逐す」

 

一書第三:

 

「即ち素戔嗚尊に千座置戸之解除を科し
 手の爪を以て吉(よい)物の爪を棄て
 足の爪を以て凶(あ)しき物の爪を棄てる

 乃ち天兒屋命の掌(てのひら)を使って、其れ解除し
 太(はなは)だ諄(くどくど)宣(の)べて辭(や)める
 之(これ)而(に)世の人者(は:短語)己の爪を収めるのを愼む

 此れ其の縁也」

 

▽手足の爪

 

古事記と日本書紀第七段本文を比較すると、

日本書紀の記述は情報不足になっています。

 

古事記では「鬚(あごひげ)及び手足の爪を切り」とするのに対し、

日本書紀本文は「其の手足の爪を抜いて」と大きく異なります。

 

この事から、本来は「夜良比夜良比」を抜く事をする為に、

「スサノオ」は「鬚(あごひげ)及び手足の爪を切り」、

きれいにして作業に移ったのだと思います。

 

きれいにした意味としては、「夜良比夜良比」のある地域は、

特別な土地なので正装をしたと考えられそうです。

 

一書第三に関しては、「爪を切って棄てた」と解釈しています。

 

▽「千位置戸」と「千座置戸」

 

古事記では「千位置戸」、日本書紀では「千座置戸」の

表記を使用していますが、「位」と「座」では意味が違います。

 

「位」は「人があるところにしっかりと立っていること。」、

「座」は「广は家、坐は地面にすわる様子を示した会意文字」

とWIKIには記載されています。

 

そして、古事記では「坐」を用いていますが、

日本書紀は「坐」と「座」を書き分けていて、

「千座置戸」では「座」を使いますが、以外では「坐」を用いています。

 

この事から、「座」には色々な意味が込められているようです。

 

しかし、「位」を「座」に変更した理由が不明です。

 

確かに「座」にも「地位」等の意味として使う事はあるようですが、

なぜ、「位」ではダメなのか?の回答にはなり得ません。

 

「千位置戸」を「千の戸に位を置く」または「千の位の戸を置く」、

「千座置戸」を「千の戸に座を置く」または「千の座に戸を置く」

と解釈すると「集会を開く為に開催所の設置」を

スサノオに行わさせたと受け取る事が出来ます。

 

情報不足の為に憶測の域を出ませんので、

今後、再検証したいと思います。

 

参照:『命名字解=めいめい-じかい』は、常用漢字と人名用漢字の成り立ち―字源・解字・字義―を知る「名前漢字の辞典」&「漢字読本」 // 位(イ、くらい)常用漢字―名づけ名前漢字の意味と成り立ち[解字・字義・字源]!
http://mei2jikai.blog113.fc2.com/blog-entry-102.html

 

▽罪とは?

 

古事記では「罪」と言う漢字を使用しませんが、

日本書紀本文・一書第二では「罪」を使っています。

 

スサノオが犯した罪とは何か?

 

「スサノオは惡か?」でも書きましたが、

日本書紀では「スサノオは状(かたち)の無き行いをした」と

書かれているだけで「悪事を働く犯人」と考える事は出来ません。

 

つまり、延長線上にある「罪」の言葉も当てはまらない事になります。

 

もし、「罪」のある行いをしたのであれば、

なぜ、状況を編集無しで記載しなかったのかが疑問として残ります。

 

一書第三に限って言えば「云云」が数回記載され、

信憑性自体が怪しいと言わざるを得ません。