国生み~大国の存在の記紀総括46-穢れと禊5- | 記紀以前の日本史を探す

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古事記や日本書紀、俗に偽書とされる歴史書、古代アジア各国の歴史書などから古代(紀元前1000年頃~)日本列島の真実の歴史を考えて行くブログです。

□穢れと禊

 

「穢れ」は「禾」+「歳」で形成されるので、

「禾」が「一つ歳をとった」と解釈出来ます。

 

この「一つ歳をとる」には「春と秋」に歳をとる「二倍年暦」が

含まれますが、紀元前8世紀頃の列島において、

実際に使われていたかどうかは不明です。

 

「穢れと禊3」からの復習ですが、

「伊邪那伎大神」は、「禾」の状態を確認する為なのか、

伊那志許米志許米岐」に足を運びます。

 

禾を見て「穢」の漢字から「歳をとった」と感じ、

なぜ、そうなったのかを「禊」として「占った」ようです。

 

「禊」は「示(いけにえの台)」と

「契(占う為に亀の甲羅を焼く。また、その道具)」から

形成されている様に、「いけにえ(動物)」を捧げて占う事だと

解釈する事が出来ます。

 

川や海に入って行うのは本来の意味ではなかったと思います。

 

「禊」の偏が「サンズイ」になっていないのも一つの証拠で、

後世に別の行事と混同した結果だと思います。

 

□祓(はら)い除ける

 

古事記では「穢れを禊(みそぎ)する」と書くが、

日本書紀では「祓(はら)い除ける」とする。

 

「祓」は、「示(いけにえの台)」+「犮(犬が走るさま?)」から

形成されていますが、「神へいけにえを捧げて祈ったり、

占ったりしている周りで犬が走り回っているので追い払う」と

言う意味にも受け取れます。

 

それとも、「犬」をいけにえとして使っていたという事だろうか?

 

もう一つの「除」は、「段のついた土山」+

「先の鋭い除草具(WIKIでは「農具で土をかき分ける様とある」)」

で形成されています。

 

参照:「除」という漢字の意味・成り立ち・読み方・画数・部首を学習
https://okjiten.jp/kanji990.html

 

上記の字源等を見る限り、「祓い除ける」とは、

「土などの汚れを手で落としていく」と解釈出来ます。

 

しかし、古事記の「穢れを禊(みそぎ)する」の意味とは、

別の意味になってしまい一致しません。

 

時間と場所が違うのかも知れません。

 

日本書紀の記事は、内容から「黄泉國」で火山の噴火に遭遇し、

安全な場所(自分の國?)まで逃げて来た事で、

汗や埃まみれの体を水で洗い落とすと言う話になっています。

 

しかし、古事記の記事は、その後に自国の穀倉地帯に

出向いた事の話になっているので少々違います。

 

日本書紀でも「穢」の漢字を使っていますが、

本来の「禾が歳をとった」の意味ではなく、「汚れやきたない」の意味に

変化していて、「禊」は「水に入り清める事」になったと思われます。

 

日本書紀の原文を見て貰えば分る通り、

日本書紀において「禊」という漢字は一度も使われていません。

 

つまり、日本書紀の記事に「禊」の場面はないという事になります。

 

なぜ、「禾が歳をとった」→「汚れやきたない」の意味に変化したのか、

そして、変化した時期がいつ頃なのか気になる所です。

 

あと、「禊(みそぎ)」の語源を考えると「身を削ぐ」とも考えられます。

 

「身を削ぐ」様な辛い修行をして「神」の地位を手に入れたが、

アクシデントにより「改めて神と契約する」と言う意味も

含まれている様に推測しています。

 

□禊(占い)の結果

 

記紀には「禊」と言う「占い」の結果を記事とせずに、

新しき「神の名」の名付けに場面が動いていきます。

 

なぜ、結果を書かなかったのか?

 

「三貴子」に権限割譲する事が、「禊」で出た結果だったのか?

 

単に編纂時に省略したか、それとも、編纂時、情報が欠落していたか。

 

今となっては真実は闇の中です。

 

□あはき原の再考

 

古事記:竺紫日向之橘小門之阿波岐(あはき)原

 

日本書紀:筑紫日向小戸橘之檍(阿波岐(あはき))原

 

前回、「橘小門」と「小戸橘」は同一ではなく、

近い場所にあるかも知れないが別の場所と考察しました。

 

第五段一書第六しか検証していませんでしたので、

一書第十一も含めて再考したいと思います。

 

日本書紀第五段一書第十一:

 

「故欲濯除其穢惡 乃往見粟門及速吸名門 然此二門

 潮既太急 故還向於橘之小門 而拂濯也」

 

(故 其の惡の穢れを濯いで除くを欲す

 

 乃ち見粟門及び速吸名門に往く

 

 然し此の二門、既に潮が急で太く故而(に)拂(はら)って濯ぎ

 橘之小門於(お)向いて還る也)

 

「黄泉國」から移動している場面で、服に付いた汚れや体の汚れを

落とそうと、近くの見粟門及び速吸名門に向かう。

 

しかし、急流で川もしくは海に入って体を洗う事が出来ないので、

「橘之小門」に向かって帰る事になったと言う話だと受け取っています。

 

ここで重要なの事は「橘之小門於(お)向いて還る」と

記載されている点で、これにより一書第六の「小戸橘」は別の場所に

存在した可能性が高まると思っています。

 

「小門」や「小戸」とするからには「大門」や「大戸」も存在した

可能性を容易く考える事が出来ます。

 

「大門」が先に存在し、港の目印となり、「小門」は船の収納場所、

その次に、「イザナギ」の滞在した家?(今でいう屋敷だろうか?)の

「大戸」があり玄関に近い「小戸」があったのではないかと考えます。

 

「小門」と「小戸」の場所が別の場所であると言う結果の変更は

ありませんが、近くには「見粟門及び速吸名門」の様に、

他の門も存在し用途別に門を使用していたとも受け取れます。

 

あと、「橘」は字源から「とげのある植物」で「温暖な気候を好む」

自生地は「海岸に近い山地」となっています。

 

出雲國近域の「黄泉國」から「高天原」への帰りだと仮定すると、

出雲國近域から船に乗り、古代に繋がっていた博多湾~有明海の

博多湾を通って海岸線沿いにあった「竺紫」に戻って来た。

 

「小門」と「小戸」のある場所は、温暖な気候であり、

海岸線にも近い山地を「九州山地」とすると

例えば、「基山」、「鷹取山」などが考えられそうに思います。

 

他に、「見粟門及び速吸名門」が急流だとするなら、

急流で検索しても九州では「球磨川」しか出ませんが、

古代では川の治水はしていないと思われるので、

現代以上に急流の場所は多かったのではないかと推測しています。

 

参照:「橘」という漢字の意味・成り立ち・読み方・画数・部首を学習
https://okjiten.jp/kanji2535.html