記紀以前の日本史を探す

記紀以前の日本史を探す

古事記や日本書紀、俗に偽書とされる歴史書、古代アジア各国の歴史書などから古代(紀元前1000年頃~)日本列島の真実の歴史を考えて行くブログです。

古事記の第七章を考察し更新しました。

 

今回のテーマは、「神武天皇の東征」です。

 

結論からすると、「東征」自体行った様には思えませんでした。

 

ここから、その理由について書いていきます。

 

 

 

※少々、おかしな表現があるかも知れませんが、ご了承下さい。

 

 古代九州の地名

 

第七章の冒頭で、「卽自日向發 幸行筑紫 故 到豐國宇沙之時」
の文がありますが、この後、「竺紫之岡田宮」、
「阿岐國之多祁理宮」、「吉備之高嶋宮」、「紀國男之水門」、
「熊野山」、「吉野河」、「忍坂」、「畝火之白檮原宮」
と移動します。

 

ここに書かれる「地名」は、
検索しても「近畿地方」としか出ません。

 

しかし、この後の、「神沼河耳命」の代以降の「地名」は、
「近畿地方」の他に「古代九州」に存在したと思われる名が、
多く存在しています。

 

ちなみに、「畝火之白檮原宮」ですが、
日本書紀では「橿原宮」と表記されます。

 

「畝傍山」ともあり、当然、「傍」=「火」と考えるのは、

間違っています。

 

確かに、「畝火」も「畝傍」も
「うねび」と読むかも知れません。

 

ところが、「畝火」は、「訓読み」で「うねひ」となり、
「畝傍」は、「畝」が「訓読み」、「傍」が「万葉仮名」で、
「うねび」となり、根本的に違うのが分かります。

 

ここからは、記載された地名と古代九州の地名を書きます。

 

①「吉野河之河尻」→熊本県熊本市南区城南町吉野
  (壬申の乱の舞台を歩く 九州王朝説 大矢野栄次著より)」

 

こちらは「熊本県熊本市南区城南町今吉野」に
なっている様です。

 

②「訶夫羅前」→「糸島半島西部の旧加布里湾訶夫羅前」

 

③「葛城」→「肥前国三根郡葛木郷」

「和名抄」では「葛木郷」ですが、根拠は不明ですが、

「葛城郷」があったとする辞典等があります。

 

④「春日」→「福岡県春日市」と「熊本市西区春日村」
とありますが、「市」は時代で変化するので、

「村」の名の地が信憑性がありそうです。

 

⑤「伊勢」→

「加布里湾の西部の糸島市二丈に伊勢ヶ浦・伊勢田〜」

 

上記の様に、「葛木」、「春日」、「伊勢」が、

古代九州であったと仮定すると、

本当に「近畿地方」に「東征」したのか疑問が出ます。

 

 

 日本書紀の紀年法について

 
日本書紀にある「辛酉年春正月庚辰朔」という
「紀年法」について調べると、
江戸時代から問題視していた様です。
 

 

上記のページにある様に、

「紀元前660年」に即位したというのは、

嘘ではないか?と考えて、色々と考えた様です。

 

この中で、可能性のありそうな案があります。

 

①「踰年称元法」

 

「踰年称元法は、中国の前漢の武帝が、即位の翌年を
元年としたことに始まります。」と「AI による概要」に出ます。

 

詳しく検索すると、「前漢の武帝が即位の翌年にあたる
紀元前140年を「建元元年」としたことが、中国最初の元号の
始まりとされています。」と出ます。

 

この案であれば、「紀元前140年」以降10年の間と考えられます。

 

なので、今まで言われてきた「紀元前660年」よりは、

530年近く後世になりそうです。

 

②衝口発

 

「藤貞幹は『衝口発』で、神武天皇元年辛酉は周の恵王17年
(西暦紀元前660年)の600年後としなければ三韓との年紀に
符合しないことを述べた。」とWikiに載っていますが、

「衝口発」の原文の中に確かにその記述はありましたが、

単に「600年後」と書いているわけではなく、

「崇神帝丗八年辛酉ナラム然レハ周恵王十七年辛酉ヨリ

六百年後也」と書いています。

 

他にも「六百年減らさなければ、三国の紀年に符号セス」

とありますが、本文に書いている様に、

なぜ、三国の紀年が大切なのかの説明がありません。

 

③干支紀年法

 

Wikiには「確立したのが太初暦が採用された

紀元前104年あたりとされる」と書いています。

 

また、Wikiには、「こうした中国での干支紀年法の成立の歴史を鑑みるに、紀元前660年相当の時代を干支紀年法で 

記載しているというのはオーパーツと言える。」ともあり、

「紀元前660年頃」ではありえないらしいです。

 

④メトン周期

 

これは「小川清彦」さんが主張する方法の様です。

 

Wikiに「紀元前433年にアテナイの数学者の

メトンによって見出された」とあります。

 

また、「日本書紀の朔日干支の記述は665年に作成された儀鳳暦

とよく合致するとされる」ともあり、もし、本当であれば、

日本書紀の紀年法は「嘘」となります。

 

「メトン周期」は「儀鳳暦より古い時代の暦」とあるので、

「儀鳳暦」、「メトン周期」のどちらにしても、

「紀元前660年」である証明にはなっていない様です。

 

⑤まとめ

 

この様に、

「踰年称元法」が「紀元前140年」、

「衝口発」が「紀元前60年」、

「干支紀年法」が「紀元前104年」、

「メトン周期」が「紀元前433年」なので、

日本書紀の神武天皇は「紀元前660年」ではなく、

「紀元前150〜100年頃」の人物と解釈できそうです。

 

もちろん、これらは、推測ですが、色々と疑問点が

出ている事から、あながち間違っていないと思います。

 

 

 神武天皇とは?

 

多くの人は、学校の歴史で聞いたくらいだと思います。

 

初代天皇と云われていますが、本当にそうなのでしょうか?

 

今回、考察していて1番気になったのが、
「坐畝火之白檮原宮 治天下也」と

天皇の地位を得たはずなのに、なぜか、名がありません。

 

「故 如此言向平和荒夫琉神等 退撥不伏人等而

坐畝火之白檮原宮 治天下也」が「以音」を抜かした原文です。

 

本来であれば、

「神倭伊波禮毘古命 坐畝火之白檮原宮 治天下也」

となっていて不思議では無いのに、その様になっていません。

 

ちなみに、日本書紀でも「天皇卽帝位於橿原宮」とは、

ありますが人物名の記載はありません。

 

つまり、初代天皇が誰なのか?という疑問が出てきます。

 

考察していて気が付いたのですが、

「作足一騰宮而 獻大御饗 自其地遷移而 於竺紫之岡田宮一年坐」

の文で、「足一騰宮」を造ったのに関わらず、

「竺紫之岡田宮」に移動しています。

 

また、宮の移動は、「足一騰宮」、「竺紫之岡田宮」、

「阿岐國之多祁理宮」、「吉備之高嶋宮」とあり、

最後に「畝火之白檮原宮」とあります。

 

「神八井耳命」の子孫が「意富臣 小子部連 坂合部連 火君
大分君 阿蘇君 筑紫三家連 雀部臣 雀部造 小長谷造 都祁直
伊余國造 科野國造 道奧石城國造 常道仲國造 長狹國造
伊勢船木直 尾張丹羽臣 嶋田臣等之祖也」となっていて、

古代九州出身と思われる「姓(かばね)」も多いので、

上記の「宮」も、「古代九州」の中の地名だと思っています。

 

話が脱線しましたが、先程書いた「足一騰宮」が、

内容的には、多分、ほとんど使わないままに放置された事を

考えて、「足一騰宮」で「初代神倭伊波禮毘古命」が、

亡くなったのでは無いか?と思っています。

 

なので、他の宮も各々違う人物が、宮を運営したのではないか
と思っています。

 

そのため、もし、この仮定が正しいとすると、

登場する「宮」が5つあるので、これを全体の年齢である、

「137歳」を5人で割ると「27.4」となります。

 

もちろん、これは単純に割っただけなので、

本当かどうかは不明ですが、縄文時代や弥生時代の

「平均寿命」が「30歳」と言われているので、

あながち間違っていないかなと思っています。

 

この様にある程度は「神倭伊波禮毘古命」について

知る事は可能ですが、やはり、なぜ、1番大事な場面で、

名を書かないのか?という答えが出ません。

 

「凡此神倭伊波禮毘古天皇御年 壹佰參拾漆歲

御陵在畝火山之北方白檮尾上也」とあるので、

確かに「神倭伊波禮毘古天皇」が存在していたのは、

確かだと思いますが、時間としては完全に不明です。

 

あと第3段落で「陵卽在紀國之竈山也」という文がありますが、

「陵」というぐらいなので、高位の人間が亡くなったと

思いますが、この文の人物は「負賤奴之手乎死」にある

「賤奴」にあります。

 

「賤奴」というと悪いイメージがありますが、わざわざ、

「賤奴」のために「陵」を作る事はしないと思います。

 

という事で、もし、「賤奴」が「元神倭伊波禮毘古命」

ならばどうでしょうか?

 

元とはいえ、「神倭伊波禮毘古命」の名を継承し、

國などの運営をしていた人です。

 

この様な人物が亡くなったのであれば、立場がどうであれ、

「陵」を作るというのは考えられます。

 

特に、部下等に信頼されていれば、ありえる事だと思います。

 

1番近い宮は「吉備之高嶋宮」なので、もしかしたら、
「吉備之高嶋宮」を運営していたが、なんらかの罪で、

「賤奴」に落とされたのかも知れません。

 

上記の様に考えると、5人の「神倭伊波禮毘古命」が、

いたという考えは、十分に考えられると思っています。

 

 

 まとめ

 

上記の様にまとめてきましたが、やはり大きな疑問は、

「神倭伊波禮毘古命 坐畝火之白檮原宮 治天下也」

と書かなかったのかという事です。

 

この様に書けば、「神倭伊波禮毘古命」が、

初代「天(あま)の皇(おう)」なのだと分かりますが、

ここに名が無いという事は、

初代では無いと言っている様なものです。

 

これは、日本書紀にも言えます。

 

また、世に言われている「神武の東征」も、

日本書紀の中の地名が、良く知っている地名だったから、

「近畿地方」まで「東征」したのではないか?と

思っています。

 

例えば、「至安藝國居于埃宮」がありますが、

「阿岐國之多祁理宮」の「阿岐國」と「安藝國」が

イコールである事を、誰が、証明するのでしょうか。

 

その当時に生きていた人は、すでに亡くなっていて、

存在していないので、イコールであると誰も証明できません。

 

では、どうするか?ですが、

これは、後世の人間の主観によります。

 

つまり、「安芸国」が存在したのだから、

同じ表記なので、同じ場所だろうと思うでしょう。

 

ですが、本当にそうなのか?は、古事記の編纂者、並びに

日本書紀の編纂者も、イコールではないという情報が無いので、

分からなかったのだと思います。

 

だからこそ、安易に「安芸国」=「安藝國」と思うのではなく、

本当にそうだったのか?と考える力が必要です。