世の中の真実を知った上で良い未来を作るブログ

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いろいろ知った人が未来に不安を抱いていますが、知った上で
自分でより良い未来を作る為に明るい所にも目を向けていこうという
趣旨のブログです。

 

 

先日、念願だった

マンザナー日系人収容所跡地に

見学に行って来ました。

 

 

1941年の真珠湾攻撃の後、

アメリカに住む約12万人の日系人が

10か所ほど作られた収容所に

入れられました。

(マンザナーには約1万人)

 

中には日系人以外(白人など)の

配偶者も数百人ほど自らの意志で

収容所に来たそうです。

 

 

米国に賛同したいくつかの国、

(カナダや中南米など)

日系人を内陸部に移動させたり

財産没収が行われました。

 

 

今回、私が現地に行ってみて

感じたのは、日系人が強制収容

された歴史は「悲惨な歴史」とか

「正しかった、間違っていた」

とかだけの話ではないという事でした。

 

そういう視点はもうすでに

大勢が議論してきた事です。

 

 

でも私は一般的な議論とは

違う面に強く興味がわきました。

 

都市伝説系/歴史系/スピ系、

UFOやミステリー系の人達の

みんなが答えが出せず漠然と

していた事が、マンザナーで

分かったのです。

 

 

 膨大なのでいくつかのブログに

分けます。読んでいくうちに

きっと「そういうことか」と

思えるはずなので、謎解き感覚で

ぜひ読んでみてください。 

 

 

 

ではご覧ください。

 

 

場所は、米国CA州インヨー郡。

ローンパインという小さな町から

20分ほど離れた所にあります。

 

 

道路沿いには監視塔が。

 

 

何度もメディアで見た監視塔。

当時は8基あり憲兵が監視して

ました。

 

逃げようと思えば逃げれたけど

「許可」があれば出れたので

逃げる人はほぼいなかったそう。

(外に出て労働をしていた人もいた)

 

 

 

マンザナー収容所の門。

 

ここは、当時使われていた

石垣を修復したものです。

 

石工職人の門田良三さんが

中心となって作ったと考え

られています。

 

後ろのシエラネバダ山脈が

美し過ぎる。

 

 

 

 

ここは、講堂として実際に

使われていた現・ビジターセンター

(資料館)です。

 

 

 

資料館の中。

 

 

 

 

剣道の防具に野球道具、

トロフィーまで。

 

左上の板には「日米大戦記念」

と書いてあります。

 

この「記念」は変な感じがして

しまいますが、「この時期の」や

「○○にちなんだ」という意味。

 

収容所の中にはスポーツ用品店も

あったそうです。

 

 

 

 

このような何もない砂漠に

500以上のバラックが

建てられていました。

 

 

 

マンザナーは36のブロックに

分けられていました。

 

 

 

手に持てるだけの荷物しか

持ち込めず、始めの頃は

家具なども無く、砂埃が

隙間から入ってきて

大変だったそうです。

 

 

 

 

バスケットコートも。

 

各ブロック(36か所)に1つ以上

バスケコートがあったそうです。

 

image

 

トイレはこんな感じ。

無理ですよね・・・・・(涙)

 

収容所内には女性用便器は

360ほどあったそう。

 

 

 

シャワーは位置が高過ぎて

女性や子どもには使いにくかった

そうです。それよりもプライバシーが

無くて辛い(涙)

 

 

 

 

学校もありました。

 

学校に関しては日系人教師も

いましたが、米国の公立学校の

カリキュラムに沿って行われて

いたので外部から派遣された

教師が中心となって教育し、

校長や教育行政の担当者もおり

卒業証書も公立学校と同じものを

受け取れました。

 

 

 

小学校の1~6年生までの

写真が飾られています。


 

 

 

食堂。

 

30か所以上ありました。

これまでの家族で食事するという

習慣から、バラバラに食べる形になり

(多分友達とかと食べたのかなぁ)

家族の結びつきが弱まったと

感じた人も多かったそう。

 

 

 

砂漠に近い環境で、石をどかし

灌漑をし土壌を改良していろんな

野菜や果物を作りました。

 

収容期間は1942年半ばから

1945年半ばまでという短期間

でしたが、その間に砂漠で

野菜を作り上げれた技術力って

凄過ぎませんか?

 

 

 

 

午前3時半ー養鶏場で卵を集める

午前4時ー豆腐工場が始動

午前4時半ー朝食作り開始

 

といった感じで食事の為の

時間割がギッシリ書かれています。

 

小さい子の為の補食の時間まで

ありました。

 

 

午後8時からダンス・映画・集会

などで食堂が利用されたそうです。

 

 

ちなみに、公衆衛生部門があり

食堂の衛生状態などの確認が

行われていたので、大規模な

食中毒の記録はほぼ無いそうです。

 

 

一度、ピクニックの予定が大砂嵐で

キャンセルになり、食べなかった

サンドイッチが勿体ないと思って

だいぶ後で食べた人達で集団食中毒が

あったそう。

 

 

 

image

 

マンザナーでは50ものクラブが

作られました。

仲間との別れが悲しかったのだとか。

 

 

収容所内では188組が結婚し、

541人の赤ちゃんが生まれました。

 

 

ちなみに、戦前から孤児だった子も

「日系人」という事で収容されてます。

マンザナーの中の孤児院で日系人に

お世話してもらったそうです。

 

 

 

 

 

1942年から始まった収容所生活

ですが、1943年以降は米国に忠誠を

誓った人達は米国内の内陸部であれば

外に出れるようになっていました。

 

 

その時点でまだこの収容施設に

残っていた約半数の5549人の

日系人は感謝祭やクリスマスに

七面鳥を食べお正月にはお雑煮を

食べました。

 

二世はアメリカ風な食べ物を好み

一世はお蕎麦やすき焼きとかお茶を

好んだそうです。

 

 

 

 

収容所に住んでいた人達は内部で

仕事をしてる人が多かったのですが、

月給はお医者さんクラスでも

学生のバイト代ぐらいでした。

 

生活費は全て無料なので生きて

いけますが、お医者さんでも

バイト代ぐらいなので責任と

見合わないと憤りを感じたようです。

 

稼いだお金で通販や売店で

買い物ができました。

 

 

 

ちなみに、売店では必要最低限の

物資だけでなく、さきほども書いた

スポーツ用品をはじめ贈答品や玩具

まで買えたそうです。

 


ここは、土台となる建物などは

アメリカからの提供ですが、

内部での仕事など日本人が自分達で

考えて暮らしを作り上げたそうです。


10箇所あった収容所のどれもが

同時多発的にこのような暮らしを

はじめました。


 

次回に続きます。