2011-03-22 | 弥勒
マニ教、ミトラス教、弥勒信仰のあたりを行きつ戻りつしています。

菊池章太氏の「弥勒信仰のアジア」という本を読んでみました。

著者は、「アジアの弥勒信仰」についてではなく「弥勒信仰のアジア」について書きたいのだ、と語っており、“アジア”なるものへの愛が流れている、魅力的な本でした。

とても柔軟な発想が印象的です。

おおまかに抜粋して引用させていただきます。
リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


         *****


         (引用ここから)


「弥勒」とは、仏教の教えでは未来に現れる仏である。

中国ではどうか。

「弥勒」については到底一口には言えない。

ある時代には誰の目にも明らかなくらい、おおっぴらに信仰された。

ある時代には目につかないように、かげに隠れて信仰された。

長い歴史の中で、あるいは社会の表で、あるいは裏で、それは信仰されていた。


「弥勒」が菩薩から仏陀になろうとして、この世に現れることを下生という。

この世に下ってきて生まれるからである。


ではこの世に現れるのはいつなのか。

それは想像を絶するような遠い未来のことである。


        (引用ここまで)


           *****


アジアでは、たくさんの巨大な弥勒像がつくられてきた、と著者は語ります。

仏教であって仏教ではない、なにものかを、著者は感受しているようです。




          *****



      (引用ここから)


巨大な「弥勒」像というのは、「弥勒」がこの世に現れた姿である。

その時理想の世界が地上に実現していることを意味した。


あえて言いたい。

東アジアにおける「弥勒」信仰の本質は「弥勒への約束」にも「弥勒下生経」にも関わりがない。


もちろん「弥勒」信仰の出発点は「弥勒への約束」にあった。

しかし「弥勒下生経」に基づく「弥勒」信仰は、ある時東アジアにおいて破たんしたのである。


その時「弥勒」信仰は変わった。

それは6世紀の中国においてであった。


中国には「疑経(インド伝来ではないお経)」と呼ばれる仏教文献がある。


それらのいくつかの「疑経」において、弥勒はまさに、「慈悲的、救済者的、神的」としか言いようのない存在として登場する。


観音や阿弥陀が信仰されるようになるずっと前に、「疑経」の中で、弥勒はすでに「慈悲的、救済者的、神的」な存在として信仰されていたのだ。


偽経に語られた弥勒とは、どのような存在なのか?


    (引用ここまで・続く)


        *****


 wikipedia「疑経」より

「偽経」、あるいは「疑経」とは、中国において、漢訳された仏教経典を分類し研究する際に、インドまたは中央アジアの原典から翻訳されたのではなく、中国人が漢語で撰述したり、あるいは長大な漢訳経典から抄出して創った経典に対して用いられた、歴史的な用語である。

中国撰述経典という用語で表現される場合もあるが、同義語である。


「偽経」あるいは「疑経」として認定された経典類は、経録中で「疑経類(偽経類)」として著録され、それらは「大蔵経」に入蔵されることはなかった。

それに対して、正しい仏典として認定されたものは「真経」として、「大蔵経」の体系を形成することとなった。

しかしながら、「偽経」あるいは「疑経」と認定され、「大蔵経」に入蔵されなかったとは言え、これらの経典群が消え去ることはなかった。

むしろ、盛んに読誦され、開版されて、今日まで伝わる経典は数多い。

『父母恩重経』、『盂蘭盆経』、『善悪因果経』など、今日も折本形式で発売されている偽経類は、多く見られる。

多くの経本に収録されている『延命十句観音経』なども偽経の一つである。


このことは、「偽経(疑経)」というレッテルを貼られていても、時機相応の教説を説く、これら中国で撰述された経典類が、漢字文化圏において受容され得る力を持ち続けている証左となるものと考えられる。


「現在の日本のある宗派の所依の経典、つまり根本聖典が、偽経(疑経)であるから、当該の宗派の立場は仏教の異端である」と、別の宗派からの非難がなされることがある。

しかし、仏教経典と呼ばれるものが釈迦の教説をそのまま伝えているのではないことは、経典研究の結果[要出典]、明らかとなっている。

東晋の釈道安の時代には、雑多に翻訳された漢訳経典を整理する上で「真経」と「偽経(疑経)」とを厳に区分することは、最優先事であった。


比較的最近に発表された「偽経」にまつわる説としては『般若心経』が中国撰述であるという説がある。

米国のジャン・ナティエ(Jan Nattier)は、鳩摩羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』などに基づき、玄奘が『般若心経』をまとめ、それを更にサンスクリット訳したという説を1992年に発表している。



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(重複しています。)
06 | ホピの予言と文明の危機

文化研究者である北沢方邦さんとお連れ合いの青木やよひさんは、1971年に初めて、ホピの地を訪れておられます。

彼らはその後1975年、1984年と訪問を続けられ、とても貴重な経験を何冊もの著書にまとめておられます。

ホピ族の方たちとの交際から実り多い考察をめぐらして書かれたそれらの著書は、“野生の思考”を取り戻そうとする当時の文明論の流れを、翻訳ものから、日本人による思考として根付かせた役割は大きかったと思います。


1975年、2回目のホピの地訪問を終えて北沢方邦氏が著した本「ホピの太陽」にある、ホピの村の日常のひとこまを、抜粋・引用して紹介します。


         *****


            (ここから引用)

わたし達が出発する前の日の朝、村では泉の清掃儀式が行われていた。

その日は朝から村はなんとなく神話的で童話的な気分に包まれていた。

というのは、静かな朝の村のそこかしこに、鈴の音やカメの甲羅の音、あるいはフー、フーという呼吸音など、それぞれのカチナに固有の響きが鳴り渡り、あの辻、ここの通りにキヴァから姿を現し、見るからに恐ろしげな黒鬼やフクロウなどの姿が、ちらちらと見え隠れしていたからである。

祭りの日ならいざ知らず、きわめて日常的な村のたたずまいに、極彩色のカチナたちが出没するとはなんと幻影的で、超現実的な風景であることだろう。

わたし達は家の窓からこの一服の超現実派の絵のような光景を眺めていた。

そのうちに黒鬼のカチナが一件一件の戸口を回り始めた。

あたりを睨みまわす独特のしぐさをしながら、何やらホピ語の口上を述べ、それに答えた口上を受けるやいなや、隣の家へと去っていった。

やがて各戸から現れた大人たちは、手に手に掃除用の道具をもってメサの下の泉の方に降りていき、また幼い少年少女たちも家々からぞろぞろと現れて、天水溜の方に向かっていった。

シドニー家の末子も素足になって裏口から一人で出て行った。

その間にもカチナたちは村の辻辻に出没し、独特の叫びや声をあげている。

子どもたちは裸足で天水溜に降り立ち、石やごみを拾い出しては捨てていく。

カチナたちはいわば子ども達を監督し、励ましているのだ。

子どもたちはカチナ達にたわむれに追いかけられて、きゃっきゃと逃げ回ったり、また作業に戻ったり、きわめて楽しげに働いている。

わたしは子どもたちの自主性や自立性を尊重しながら、強制を同意に変え、労働を神話的な遊びに変える、このホピの部族教育のすばらしい知恵に打たれた。

ホピではカチナ儀礼以前の子供は厳しいしつけの対象となる。
ときには体罰もくわえてホピの価値体系を教え込む。

小さな虫や植物にいたるまで、すべての生き物を理由なく傷つけ、殺すことはもっとも厳しく戒められる。

無機物も含め、全自然は人間の友愛に満ちた兄弟なのだ。

ついで、怒りとかしっとといった、人間のもっとも醜い感情を表すことは悪いことであり、恥ずかしいことであると蔑まれる。

すべてこうした“ホピ(平和)”の信念に反する行動は“カホピ(ホピでない)”の一語でしりぞけられる。


この時期の子供たちにとって、カチナは実在する精霊であり、子どもたちの集団の背後に無言で存在する宇宙的な監督者である。

氏族の祖父たちや祖母たちから語り継がれる無数の神話や伝説は、彼らの文学であり、芸術であり、こどもたちの想像力は現実のカチナの姿に結び付いてその翼を宇宙の果てまで広げる。


こうしてある時、カチナ儀礼の日がやってくる。

少年少女たちはキヴァの暗闇の中に儀礼父母と共に一人づつ招き入れられ、恐ろしいカチナの手から厳しいむち打ちを与えられる。

そしてむち打ちのあとで、カチナは静かに仮面を取り外し、鞭打った者が、神々の霊ではなく、村の隣人だったことを教える。

この瞬間、少年少女はカチナが、人間によって実行される精霊たちの使者にすぎない現実を認識するとともに、目に見えない精霊たち、言いかえれば超自然的なものと、目に見える全自然と、そしてカチナ仮面をかぶる隣人と同じ人間であるおのれとの、三者の関係を理解し、それらのものの調和の世界の中で、人間の負うべき責任と義務とに目ざめるのである。

彼らはもはや一人前とみなされるとともに、自分たち自身の自立した独自の集団の世界を形成する。

そしてキヴァ結社に加盟し、それによって大人たちとの新しい関係の中に踏み入るのである。

少年たちはそれぞれのキヴァ結社固有の教育を受け、儀礼や祭りのやり方を学び、仮面を作り、モカシンを縫い、カチナ人形をつくる技術を習得する。


男性には、最後にウウチム=成人儀礼がやってくる。

この儀礼はホピの諸祭礼や諸儀礼の中でも、最も恐ろしい秘密の帳に包まれている。

ウウチムの夜、村は封鎖され、外部と完全に遮断される。

村の入口はもちろんのこと、辻辻には一角の兜をかぶり、槍を手にした一角獣結社の屈強な男たちが終夜、警護の陣を張り、キヴァの秘密を盗もうとするものを容赦なく殺そうと待ち構えている。

しかしウウチムは、人類の誕生と受難の秘密をすべて集約した、人間の死と再生の秘儀なのであり、もしこの秘密が破られるなら、ホピのみならず、人類全体におそろしい災厄を招くに違いないのである。


教育的見地からすれば、少年が男となるためには、単に一部族だけではなく、人類と世界全体に対する、この恐ろしいまでの責任の自覚が要求されるということに他ならない。

ここに、われわれの文明に対するホピの教訓がある。

              (引用ここまで)

 
     *****


ここに書かれているウウチム祭などホピの祭りは、たいへん意味深いものと思われます。

次回からホピの祭りについて、紹介していきたいと思います。



北沢方邦氏の「ホピの太陽」を、久しぶりに読み返してみました。
1976年に書かれたものです。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。


           *****

          (引用ここから)


ホピの伝説によると、マヤやアステカは、人類誕生の日に「父なる天」と「母なる大地」から教えられた教えにそむき、巨大な都市を築き、権力に酔い、邪悪な宗教を創始して亡びることとなった「ホピの悪い兄弟」であるという。

ホピは創造主たちの教えを忠実に守り、彼らとたもとを分かって、北への道を辿った少数派であり、マヤやアステカが亡びた後にも創造主たちの「予言」の成就を見届けるために生き続けることを運命づけられた部族であるという。

マヤやアステカとホピが種族的・文化的に親戚関係にあることは、ホピの言語がアステカ語族の一種であるショショニー語であることや、その人種的特徴(幼児の蒙古斑など)からも、また祭祀や儀礼のある種の共通性などからも証明されている。

しかしマヤやアステカの好戦性や残虐性は、およそホピの平和性とは対照的である。


ホピの神話によれば、戦争や暴力行為は常に「父なる天」の教えに背くものであり、過去の「第一・第二・第三の世界」の滅亡は、必ずそれが原因で起こったこととなる。

すなわち「第一の世界」は、すべての生命が誕生し、人間も動植物も分け隔てなく暮らしていた理想の世界であったが、おしゃべりなモチニ鳥が、人間と動物との差別や、言葉や皮膚の色の違いによる人間相互の差別を人々に吹き込み、悪知恵をもつカトナ蛇が、お互いに他人を疑うことを教え、そうして人間たちが争い始めたが故に、「父なる天」によって、火の雨と火山の爆発などの中で滅ぼされてしまったのである。

「父なる天」の教えを守っていた「選ばれた少数の人々」だけが、「母なる大地」の導きで蟻の民のキバに逃れて、「第二の世界」に生き延びる。

しかし蟻の民にならって食物の集め方や貯蔵法、家やキバの作り方などといった人間固有の文化を創り出した「第二の世界」も、村々や部族が対立し、部族間戦争を始めたがゆえに滅ぼされ、全世界は「父なる天」によって氷結されてしまうのだ。

ここでも「父なる天」の教えを守る少数の人々は、温かな蟻の民のキバに逃れて、「第三の世界 」に生き残ることとなる。

しかし「第三の世界」は、文明が生まれ数多くの巨大な石造りの都市が建設されるが、また人々の悪い知恵が極度に発達した時代でもある。

諸都市の間で戦争が起こり、武装した人々は「空飛ぶ円板」に乗って都市を攻撃して回る。

「父なる天」は再び大洪水によって「第3の世界」を滅ぼす。

「父なる天」の教えを守る少数の人々だけが、大きな中空の「葦の舟」に乗って脱出し、「第4の世界」、すなわち現在の世界へと到達する。


火山の噴火、大氷河時代、旧約聖書のノアの方舟の記述とも一致する大洪水と、ホピの神話は、地球の年代記をかなり正確に反映しているように思われる。

「第4の世界」が同時にアメリカ大陸を指しているのは確かであるらしく、すでにその一部を紹介した各種族固有の移住説伝説はこの「第4の世界」の中で展開されるのである。

しかし神話によると「第4の世界」への到達は、大洪水後、海に浮かぶいくつかの島々を経てなされたことになっていて、アメリカ大陸への人類の移住はベーリング海峡伝いに行われた、とする考古学的な通説と矛盾している。

その上、ホピの人々はベーリング海峡をアメリカ大陸の「裏口」と呼んでいて、ホピはアパッチやナバホのように「裏口」からやって来たのではなく、「表口」からこの大陸にやって来た最初の人類であると固く信じ、伝承してきている。

スペイン軍の侵入によるアステカ滅亡の時、マヤ・アステカの文明の歴史が亡びることを恐れた無名の祭司の手で、侵略者スペインの文字であるローマ字で書き記されたマヤの神話と歴史の書「ポポル・ヴフ」にも、マヤの先祖たちは水没した大陸(ホピの言う「第3の世界」から島伝いにアメリカ大陸にやって来た、と記され、ホピの神話を裏付けている。

ポリネシア人は南米から移住したインディオであるとするヘイエルダールの仮設とは逆に、彼らの先祖たちは、太平洋の島伝いにやって来た、という想像も成り立たなくもない。

そこに、失われたムー大陸の伝説(ポリネシアの島々は水没したムー大陸の山々であった、とする)が加われば、この創造図は完璧となろう。


いずれにしてもホピがこれらの廃墟も含み、北米南部から中南米一帯にかけて繁栄した古代中世文明・・その規模と質の高さにおいてアジアや中近東、あるいはヨーロッパの古代諸文明のみが匹敵しうる・・の担い手たちの子孫であることは、疑うことのできない事実である。

人口わずか7000人のこの一部族の所有する膨大な神話と伝説、多くの民族学者たちに悲鳴を上げさせた、その複雑にして高度に抽象的、哲学的な祭祀や儀礼の諸体系、医療や薬草についての博大な知識などは、何よりもそのことを証明しているであろう。


私たちはホピの最も西の端に位置するモエンコピの村に向かった。

私たちが車を止めた村の東のはずれはまた、中世代の恐竜ティラノザウルスの足跡が保存されている場所でもある。

平らな火山岩の上に、恐らくそれがまだ熱をもって柔らかい間に踏まれたものであろう、直径50~60センチの3つ跡の足跡が点々と東の方向に連なり、消えている。

鳴動し噴火する火山、溶岩流、沸騰する蒸気、火山性ガス、逃げまどう巨大な爬虫類・・「第1の世界」の滅亡はこんな状況であったのであろうか?

足跡を保護する金網のたな越しに、私たちはしばし神話的古代に想像をはせていた。


           (引用ここまで)


             *****


この話は何度もご紹介していますが、その度に不思議な気持ちになります。

なにか、大きな謎があり、幾度訪れても迷子になってしまう土地のような、懐かしいような、わけの分からない迷宮に入ったきり出られなくなったような気持ちになります。


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第1の世界 ・第一の世界  
第2の世界 ・第二の世界  
第3の世界 ・第三の世界  
第4の世界 ・第四の世界 

などあります。(重複しています)

チベットと聞いて連想される独特の不思議さに満ちた叙述が続きます。

少年ラマ僧である著者が手伝わされる、洞窟の中のミイラ作り。

彼らは、なにをしているのでしょうか?



             *****

           (引用ここから)


「〝化身″の広間」

今や、絹の覆いは皮をむくように一枚一枚取りだされ、最後には体だけが残った。

保存は完全だった。

外見は生きている時とそっくりで、もう一度、漆がはだかの遺体に塗られ、それから金細工師に引き継がれた。

彼らは熟練工であった。

金箔を一枚一枚と重ね、ゆっくりと仕事をした。


チベット以外だったら、一財産の値打ちがある金も、ここでは神聖な金属としてのみ価値あるものだった。

不朽でありそれゆえ人間終局の霊魂の世界を象徴する金属として。

金細工の技術僧は細かい隅々にも気をくばり、綿密な注意を払った。


メッキで重くなった遺体は、いよいよ他のものと同様"化身の広間″へと運ばれ、金の台座の上に乗せられた。

この広間には大昔からの数々の像があり、ずらりとならんで厳しい裁判官のように半眼に開いた目で現代の罪ととがをにらみつけていた。

みんなは、ここではあたかも、"生きている死者“を煩わさないかのようにひそひそ声で話し、忍び足で歩いた。


一つの遺体に、私は妙に心引かれた。

なにか不可思議な力が、その前で私の心をとらえた。

それはわたしを、なにもかも分かっているといった微笑でみているように見えた。


まさにその時、なにかがわたしの腕に軽く触れたので、わたしは飛び上がるほどびっくりした。



「それがお前だったのだ、ロブサン。お前の前世の"化身“なのだ。お前もそう思うだろう?」


師は、次の黄金像のところへ私を連れて行った。

「そしてこれが私だったのだ、ロブサン。」

言葉もなく、ともに深く心打たれて、二人は広場からでると扉は後ろで封印された。


ずっとあとになって私は、この広間に入り、黄金に包まれたこれらの像を研究することを許された。

ときには私はたった一人で行き、これらの前に座って瞑想にふけった。

そのいずれにもそれぞれの伝記が記されてあり、これを読むのはとても興味深いことだった。


ここには現在の我が師・ラマ・ミンギャール・ドンタップの伝記があり、彼が過去において何をおこなったかが語られ、彼の人となりとその天賦の才が概説されていた。

尊敬と栄誉が、その死去にたいする礼儀として彼の上に当たられていた。

ここにはわたし自身の過去の物語もあり、それを私は非常に熱中して読んだ。

岩陰に刻まれ、扉は固く封印されたこの隠れた部屋の中には98体の黄金像が座していた。

チベットの歴史はわたしの前にあった。

そうわたしは思ったのだが、もっとも古い歴史は、後になってわたしに示されることになっていた。



「最後の奥義 小さな死の儀式」

ある日、わたしは僧院長に「聖王直々のご命令で君は大僧正に任命されることになっている」と言われた。

かくて、認可された「化身」として、わたしは約600年前にこの世を去った時の資格を再び得たわけだ。

輪回の車が、ちょうど一回転したのだ。

それからすこしのち、ひとりの年老いたラマが私の部屋に来て、「今や「小さな死の儀式」を経験すべき時だ」と語った。

「なぜならば我が息子よ、おまえが死の門をくぐり、そこからまた戻ってくるまでは、「死はない」ということをほんとうには理解できないからだ。


空中旅行によってお前はひろく知識を学んだ。

だが今度は現世の枠を超え、我々の国の太古に時代についても、もっと多くのことを学ぶだろう」。

準備訓練はつらく、また長かった。

三か月間、私は厳格な監督下の生活を送った。

ついに三か月後、占星師が「前兆は吉であり、いよいよその時がきた」と告げた。

お寺のたいこのようにおなかが空っぽになるまで、24時間断食した。

それから秘密の階段と通路を通ってポタラのはるか下へと導かれた。

みんな手にたいまつを持ってどんどん下っていったが、私だけはなにも持たなかった。

前に私が渡ったことがある廊下を通り抜けた。


ついに通路のどんづまりに達した。

頑丈な岩が、その行く手には立ちふさがっていた。


しかし近づくと、岩はそっくり横に動いて、別の通路が現れた。


よどんだ空気と、さまざまな香料のにおいに満ちた、暗い狭い通路だった。

さらに数メートル進んで、おもおもしい黄金張りの扉のところで、私たちはちょっと止まった。


扉はギーと音を立てて徐々に開き、そのこだまが広い場所をとおるかのように、あちこちから返ってきた。

ここでたいまつは消され、バターランプがともされた。

私たちは、隠され、寺の中に進んだが、それは遠い昔、火山活動によってできた固い岩に彫り込まれ
たものだった。

これらのろうかも通路も、かつては噴火口から流れる溶岩が通じていたのだった。

それをいまはちっぽけな人間どもが、その道を踏みしめて自分らが神であるとおもうのだ。

だが今はそんなことより、手さぐりに懸命にならねばならなかった。

ここは「神秘な知性の寺院」なのだった。


三人の大僧正がわたしを導き入れた。

ほかの僧院の隋員たちは、かききえる夢の記憶のように闇の中に吸い込まれていった。


三人の大僧正はそれぞれ、右手にバターランプを持ち、左手には煙る細い線香を持っていた。

ここはものすごく寒く、この地上のものとは思われないような異様な冷気だった。

底知れぬ静けさであった。

かすかな物音さえ、その静寂を際立たせるにすぎなかった。

フェルトの長靴は足音がしなかったから、私たちは音もなくさまよう幽霊のように見えたにちがいな
い。


大僧正達のサフラン色の錦の僧衣の包囲から、さらさらとかすかなきぬずれの音が聞こえてきた。

ぞっとしたことには、わたしはわたしの全身に、痺れるような痛みと衝撃を感じた。

ものすごく乾燥した空気と法衣の摩擦が、静電気の充電を起こしたのだ。

一つまた一つと、バターランプは見えない手によってともされ、炎の命となってきらめいた。

ゆらめく黄色い火が増した時に、わたしは黄金におおわれ、まだ磨かれていない宝石の中に、なかば埋もれた巨大な像=仏陀を見た。

それは暗がりの中から、ぼんやりあらわれたが、あんまり大きすぎて、光はその腰のあたりまでしかとどかなかった。

その中にもかすかに見えるものがあった。

悪魔たちの像で、欲望の象徴であり、人間がその自我を達成するまで経なけらばならない試練の姿であった。

一方の壁に近寄ってみると、そこには輪回の15段階が描かれてあった。

明減する光の中で、それは回転しているように見え、それにつれて私たちもいっしょに回るような気
がした。


こんどこそ間違いなく岩にぶつかったと思ったところまで進んだ。

とたんに先頭の大僧正が消えた。

わたしが黒い影だとばかり思っていたのは、実はうまく隠された扉だったのだ。

ここに下へ下へと通ずる通路の入り口があった。

狭い、こもった、くねくねまがった通路で、そこでは大僧正たちの持つバターランプのかすかな明かりすら、かえって闇をきわだたせるとしか思えなかった。

一同はよろめき、躓き、また時にはすべった。

空気は息詰まるような重苦しさで、まるで地上の全重量がわたしたちの上にのしかかっているよう
な、あるいは地球の心臓部に突き進んでいるようなかんじだった。

曲がりくねった通路の最期の曲がり角に、一つの洞穴が穴をあけており、岩は金でピカピカ光ってい
た。

金の鉱脈と、金の塊だった。

岩の層、金の層、岩の層と言う具合に重なっていた。

非常に高いところで金は闇夜の星のように輝き、その鋭いつぶつぶはランプの発するかすかな光をとらえてはキラキラ反射していた。

           (引用ここまで)

             *****

>曲がりくねった通路の最期の曲がり角に、一つの「洞穴」が穴をあけており、岩は金でピカピカ光っていた。
>金の鉱脈と、金の塊だった。
>岩の層、金の層、岩の層と言う具合に重なっていた。
>非常に高いところで金は闇夜の星のように輝き、その鋭いつぶつぶはランプの発するかすかな光をとらえてはキラキラ反射していた。

この「洞穴」と呼ばれる空間について、著者ロブサン・ランパは、もう一冊の本で細かく書いています。

なにか、空間があるようです。

それについては、あらためてべつにご紹介したいと思います。


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チベットというと、死ぬことに非常に重きをおいて、生の終わりに死があるというよりは、生とともに死があり、死者の弔いもとても意識的にていねいにおこなわれていたようです。

とはいえ、土がかたくて、ほぼ岩でできているので、埋めることができず、鳥葬が一般的です。

肉体よりも魂を重んじるチベット人らしいと言えると思いますが、ここでは、「高僧」と呼ばれ、特別にミイラとして死後も保存される死者について語られています。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

         *****

        (引用ここから)


“化身”と呼ばれるような最高のラマ僧以外、チベットで死ぬすべての者は空葬によって葬される。

高僧たちは、お寺でよくみられるように、香油を塗られ、ガラス張りの箱に入れられるか、またはミイラにしてメッキされる。


この最後のやり方はひじょうに面白い。

わたしは何度もこの制作に立ち会った。


ある夕方、わたしは僧院長の前に呼ばれた。

「“化身”がまもなくその肉体を去られることになっている。

彼は今“野ばらの垣根”におられる。

君はそこへ行って,聖者をどのように保存するかを見たらよい」と、彼は言った。

そこでわたしは僧院に戻り、老僧院長の部屋に到着した。

彼の金色の霊気はまさに消滅せんとしており、そして約一時間後、彼は肉体から霊魂へとうつりかわった。


僧院長でありまた博学な人であったから、彼はバルド(死者が死後に通る道筋)を通る道案内をしてもらう必要はなかった。

さらに、私たちは〝通例の三日間"(死後のさまよいの3日間)を待つ必要もなかった。


その夜のうちに死体は蓮華座の姿勢に座らされ、一方ラマ僧たちはお通夜を続けた。

朝、最初の日の光とともに、私たちは儀式の行列をつくり、僧院の本堂をぬけおりた。

そして寺に入り、まれにしか使わぬ扉を通って秘密の地下へと降りていった。


先頭には二人のラマ僧が、遺体を籠に乗せて運んでいた。

それは蓮華座の姿勢のままだった。

僧たちの背後からは低い読経が響き、一同は赤い法衣を着、その上から黄色い袈裟をかけていた。

壁にはこれらの影が揺らめき踊り、バターランプと燃え盛るたいまつの光で異様に大きくなったり、ゆがんだりしていた。


私たちは、下に降りていった。下の秘密の場所へと。

最後に、地下20メートルほどで、封印された石の扉のところに着いた。



みんなは中に入った。

部屋は氷のように冷たかった。

僧たちは注意深く遺体を下ろし、それから2、3人のラマ僧とわたしを除いて、すべてが出ていっ
た。

数百のバターランプが輝き、どぎついぎらぎらする黄光を放っていた。


いよいよ遺体は衣服をはぎ取られ、そして注意深く洗われた。

体中の自然の穴から内臓は引き出され、大きなツボの中に入れられ、ツボは慎重に封印された。

体内はくまなく洗われた後乾かされ、そして特別なうるしがその中に流しこまれた。

これが体内で固いからを形作ることになるので、外見はまるで生きているようになるのだった。


漆で乾かし、そして固め、うつろな胴内には、形をこわさないように細心の注意を払って詰め物がされた。

腹部をしっかりさせるために、もっと多量のうるしを詰めものに浸み込ませ、堅くさせるよう中に流しこまれた。


体の外側の表面にもうるしが塗られ、乾かされた。

固くなった表面の上には、膜のように薄い絹の布地が何枚も糊付けされた。

まる一昼夜、それはそのまま動かされぬようにしておかれ、こうして最後に完全な乾燥がおこなわれ
た。


この期間が終わって、もう一度この部屋に戻ってみると、遺体はすっかり堅く、まっすぐに蓮華座を組んで座っていた。

私たちはそれを行列して下の別の部屋に運んだが、床は特殊な粉で厚く覆われていて、遺体はここ
の真ん中に置かれた。


下では僧たちがすでに火をつける用意をしていた。

注意深くこの部屋全体を、チベットの一地方から取れる特殊な塩とそれから薬草と薬石との混合物で隙間なく密閉した。

床から天井まで、部屋中に埋めものをしてから、みんな廊下の外に出て、部屋の扉を閉め、僧院のお札で封印した。

炉に点火するようにとの命令が与えられた。


まる一週間、火は下で燃え続けた。

七日目のおわりには、徐々に火は下火となり、燃え尽きていった。

おもい石の壁が、冷却するにつれて、きしりうねった。

封印をした日から11日目に、お札は破られ、扉が開かれ、彼ら僧たちは2日にわたってもろい塩の
混合物を、手で砕きながら掻き出し続けた。

ついに部屋は空になった。

真ん中の、いぜん蓮華座を組んだまま、屍衣に包まれた遺体をのぞいては。

私たちはそれを用心深くもちあげ、バターランプの光でもっとはっきり見えるようにと、別の部屋に
運んだ。


         (引用ここまで・写真(下)は、著者が出版社に送ってきた近影))


             *****

食料品店に行くと、「チベット産岩塩」を売っています。

海のないチベットに、どうして岩塩があるのか、これも興味深い問題です。


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「チベットの死者の書」のご紹介をしようと思っていたのですが、最初からポアのことがでてきてしまいので、良くないと思い、いろいろと見ていたのですが、この本もとても面白い本です。

出版年が、昭和32年とあり、古書ですが、わたしはいつごろ、どのようにしてこの本を手にいれたのか、ぜんぜん記憶にないのです。

気が付いたら、手元にあった、という気持ちがします。

それほど、この本にあることは、わたしにとっては、自分ときりはなせないことであるようにおもわれます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

            *****


         (引用ここから)


 「死をみちびくために」

ある日、死をつかさどる高僧がわたしを呼びにきた。

「たましいの解放を、どういうふうにやるか、実地に教えてあげよう、ロブサン。今日、わしといっしょに来なさい。」

私たちは長い廊下を通って、すべりやすい階段をおり、トラバの部屋に入った。

「病室」であるここには、一人の年配の僧がいて、彼は私たちすべてがいつかは通らねばならぬ、あの道の戸口にいた。

彼はかすかに動いていたが、それは非常に弱々しかった。

彼の力はおとろえ、わたしが注意して見ると、その生命の金色は色あせつつあった。

どんなことをしてでも、臨終の間際までこうした状態の彼はその意識を保たねばならなかった。

わたしと同行したラマは、老僧の両手をとり、やさしくそれを握った。

「おまえは肉の苦役からの解放に近づきつつあるのだ。

老人よ、安楽の道が通れるように、わしの言葉をようく聞くのだ。

お前の両足が冷たくなってくる。

お前の生命はまさに尽きなんとし、一刻一刻その終末へと去っていく。

心静かであれ。

老人よ。おそろしいことはなにもないのだ。

生命は両足から次第に離れ、そして目の前はだんだん暗くなっていく。

死の冷たさは、細りゆくお前の生命のあとを追って、上へ上へと這い上がっていく。

心静かであれ。

老人よ。

なぜなら偉大なる実在世界へと生命が去ってゆくことは、すこしもおそろしいことでないからだ。

永久の夜のかげは、お前の目の前にしのびより、呼吸はもう、喉のところでごろごろいっている。

来世の歓喜にあふれる楽しい解放の時はもうそこに近づいた。

心静めよ、老人よ。

救いの時は近付いたのだ。

そう言いながら、ラマは、死にゆく男の胸から頭のてっぺんにかけてさすり続けた。

これはいつも、魂を楽に解放させてきた良い方法だった。

行く手の落とし穴と、それらをいかに避けるべきかについて、くりかえし語られた。

彼の道は克明に描き出されたが、この道はかつてそこを通り、来世とテレパシーによって話を続けて
いる、これらのラマたちによってすっかり地図にされていた。



もう目が見えなくなった、老人よ。

そして、息は絶え絶えになっている。

体は冷たくなり、そしてこの世の音は、もうお前の耳には聞こえない。

心安らかであれ、老人よ。

死はいまやお前をおおっているのだから。

話した通りの道を歩むのだ。

そして平和と喜びはお前のものになるだろう。

老人の霊気がなおいっそう暗くなりはじめ、ついに消え去ったときにも、さすり続けられた。

古式にのっとって、もがく魂を完全に解放するため、突然のつんざくようなひと声がラマによって叫
ばれた。

動かないからだの上には、生気が雲のような塊となって集まり、狼狽したようにうずまいていたが、
やがてまだ銀のコードによって結ばれている肉体そっくりの煙状の型に固まった。

このコードは次第に細くなって、へその緒を切られて赤ん坊が生まれ出るように、この老人が次の生
命の中に生まれ変わるのであった。コードは細くなって、ほんの髪の毛ほどになり、そして離れた。

徐々に空に浮かぶ雲のように、型はひそやかに去っていった。

ラマはテレパシーによって、霊魂の門出の案内を指示しつづけた。

「お前は死んだ。

ここにはもうお前のなにものもないのだ。

肉の絆は放たれた。お前はバルド(死後の中間世界)にいるのだ。お前はお前の道を行くのだ。

われわれはわれわれの道を行く。

命ぜられた道を続けるのだ。

このまぼろしの世界を捨て、偉大なる実在の世界へ入るのだ。

お前は死んだのだ。

お前の道を進みつづけるのだ」。

香煙は渦巻いて登り、重苦しい空気をその平和なゆらめきでしずめた。

ラマのテレパシーによるさしずの言葉だけが部屋の静寂の水面にさざなみをたてていた。

死んだ老人は長い輪廻の道へと旅立った。

おそらくこの世で彼がまなんだことは役に立つだろうが、しかも仏の世界に達するまでには、長い長
い精進をつづけるべく定められているのだ。



死体は正しく蓮華座の姿勢に座らされ、死体を処理する人間を呼びにやる一方、旅立った霊魂にテレ
パシーの指導を続ける人々が招かれた。

これは3日にわたって続けられ、その3日の間はラマ僧たち
がおうたいで勤行をおこなった。


          (引用ここまで・写真(下)は、著者が出版社に送ってきた近影)

           *****

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https://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/4d4c4751496b4da80d0323115e27af1e

2017年に私が記したものです。

              ・・・・・


久しぶりになりますが、今日の夕刊に相模原やまゆり園事件の記事をみつけました。

          ・・・・・

「ひと」・奈良崎真弓さん 相模原事件を語る会を主宰する知的障害者」
                          朝日新聞2017・01・19

「私いま壊れそう」。

昨年7月に相模原市の施設で知的障害のある19人が刺殺された翌日、知人にそうメールを送った。

そして考えた。

「こんな事件が起こるのは、知的障害者は何もできないと思われているから。事件への思いを障害者本人の言葉で伝えたい」

4カ月後、9人の知的障害者らと語る会を開催。

封印していた悲しみや怒りがあふれ出た。

この活動を全国に、と計画する。

小学5年の時、算数の計算や漢字の勉強についていけなくなり、友だちからいじめを受けた。

孤独を忘れさせてくれたのは、次兄の勇さんと過ごす時間。

知的障害のある勇さんは、言葉の代わりに豊かな表情で語りかけてくれたが、4年後の秋、20歳で急逝した。

25歳の時、知的障害者の活動家ロバート・マーティンさんから

「障害者自身が声を上げ、物事を決めることが大事。真弓ならやれるよ」と言われた。

周囲から「明るさと行動力は天性のもの」と評される。

数カ月かけて地元の横浜市内に障害者らが集う「本人会」を立ち上げた。

花屋で働く傍ら、障害者自らの発信にこだわる。

「自分でやりたいことを選べて、困った時は『助けて』と言える社会はだれもが幸せなはず。障害のあるなしに関係なくお互いを知り、感じ合おうよ」。

将来は知的障害者への支援拠点「マミちゃんセンター」を作るのが夢だ。

             ・・・・・


次は、かつて見つけたあるブログの安積遊歩さんの「相談コーナー」の質疑応答を掲載させていただきます。

サイト名が分からなくなりましたので、あとで追記させていただきます。



安積遊歩さんは以前当ブログでもご紹介した、骨形成不全症で、障がい者問題に取り組む方です。

安積歩遊(あさかゆうほ)著「癒しのセクシートリップ・わたしは車いすの私が好き」
 
              ・・・・・

          (転載ここから)

●相談者の質問

相模原事件のあと、車いすを使っている自分のことを、「みんなも実は厄介者と見ているんじゃないか?」という疑念がとれなくなりました。

外出は好きなほうでしたが、街に出るのもこわくなりました。

これまでそんなふうに感じたことがなかったので、どうすればよいのかわかりません。

アドバイスがあればお願いします。(かもめ・22歳・学生)


この投稿に対して、安積遊歩さんは、以下のように答えています。

            ・・・

〇「こわい気持ちを人に伝えていきましょう」


私もまったく同じ気持ちになりました。

数日間ではありましたが、恐怖におそわれて過ごしました。


遺族への配慮を理由に被害者の名前が報道されなかったことも、非常な差別でした。

親は、考えに考えて子どもに名前を付けます。

名前とは、その人が何者であるかをもっともシンプルに伝えるものです。

名前を発表しないことによって、犠牲者ひとりひとりの大切ないのち、存在そのものに、思いをはせることができなくなります。

家族への配慮が理由として挙げられましたが、家族にとっても、「障がいを持つ家族」という存在が負担とされる社会だからです。

社会の大多数の人々が、障がい者には名前すら必要でない、という意見に賛同しているんだと私には受け取れます。


私たちの社会は、障がいを持つ仲間たちが、番号をふられてガス室に送られた、ナチス時代と同じようなものかもしれません。

当時のドイツでは、人種主義を背景に、優生学が権威を持つようになりました。

障がい者(こどもやユダヤ人も同様でした)の強制収容運動が広がり、ヒトラーの命令のもと、医者たちによって障がいを持つ人々が移送され、殺されました。

この犯罪がホロコースト(ユダヤ人の大量虐殺)につながるのは、多くの歴史書が語る通りです。

その背景には、「生きる価値のない人には安楽死という慈悲を」という、とても身勝手で傲慢な思想がありました。

報道される相模原事件の容疑者の言葉が事実なら、容疑者は、ヒトラーの、ひいてはナチス時代のドイツで受容されていた思想を模倣していると感じざるを得ません。


すぐに効く答えにたどりつくことは、できません。

ただ一つ言えるのは、〝私たちは驚愕し、大きな恐怖におそわれている″ことに、私たち自身が向き合い、可能な限り表現すること。

そして聞いてくれる人を見つけて、伝えていくこと。

私たちの恐怖心を、社会へ発信することが、必要だということです。

どんなに想像力があっても、当事者の話を聞くこと以上に、当事者の気持ちを共有することはできないものです。


まずは、「どんなにこわい思いをしているか」という自分の思いを言葉にしてください。

そして伝えられる限りの人に、繰り返し伝えていきましょう。

語り伝えることを重ねていれば、私たちはだれもが、自分の日々の暮らし、その積み重ねである人生を、かけがえのない勇気と使えるだけの情報を駆使して懸命に生きているという現実を、忘れないで過ごしていくことができます。


たとえば私は、この事件の数日後、バスに乗ろうとしました。

バスの車掌は「リフトがついていないので乗せられない」と言いました。

もし、事件の影響を受けて私の中の恐怖心が勝っていたなら、「もういいか」と、引き下がっていたかもしれません。

でも気づくと、「バスにリフトがついたのは、私たちがリフトのない時代から乗車を望み、交渉の努力をし、まわりの人の手を借りて乗り続けたから。

あなたが言ったような言葉に私たちがあきらめていたら、いま、路線バスの一台にもリフトはついていなかった。だからリフトのないバスにこそ、私は人の助けを得ながら乗る必要があるのです」と、交渉していました。

運転手に訴える自分の言葉を、半ば冷静に、でも充実感を持って聞きながら、やはり私はあきらめていないんだと気づきました。

周りの冷ややかな人のまなざしも感じました。

それでも、「次はリフトのあるバスにも予約がなければ乗せない」という車掌の言葉にさらに発憤して、その差別性を問いただしました。


状況は、たしかに過酷です。

過酷さは、20年前よりもある意味先鋭化しているかもしれません。

若い人たちが互いに分断され、孤立しているようすには、胸がいたみます。

でもそれと同時に、こうして呼びかける私たちの世代がいることも、事実です。


20年前は、同じような障がいを持っていてさえ、「人に迷惑をかけない生き方を選びなさい」と、年上の先輩たちから説教された時代でした。

障がいを持っていてもがまんしない生き方を選んだなら、同じ感性の仲間とつながることが重要です。

今は、私たちの世代にも自立運動を続けてきた仲間がいますし、若い仲間たちもたくさんいます。

そして、障がいを持たない若い人たちもまた、心のどこかで、仲間として呼びかけてもらうことを、待っているように私には見えます。


決してあきらめないで。

こわい、こわいと言いながらでいいから、外に出かけていきましょう。

〝こわいから外出しない″、という選択を終わりにしない限り、事件の容疑者のような考えに凝り固まっている人たちには、私たちの〝人間性″が見えないままになるでしょう。


分け隔てられることは、互いへの理解をはばむことです。

私たちは、障がいのある人と障がいのない人が、分けられ、隔離されることを止めようと運動してきました。

しかしその運動が充分に行き渡らないうちに、今回のような事件が起きたのは、本当に本当に残念です。

あきらめることなく、努力し続けていきましょう。

わがままだとか、手がかかるから付き合いたくないと言い合いができるくらいの、対等な関係を求め続けていきましょう。(遊歩)


           (引用ここまで)

         
            ・・・・・


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安積遊歩(あさかゆうほ)著「癒しのセクシートリップ・・わたしは車イスの私が好き」を読んでみました。

骨形成不全症で、生まれた時から繰り返し骨折し、大変な困難を抱えておられるであろうに、不屈の精神と知性で切り返し、ヘルパーの男性と結婚して、一児の母となり、今もますます活動的な安積さん。

何十年も前に一度、小さな公民館での講演会でお話を伺いましたが、今も忘れられない魅力的な方でした。

どこを取っても痛快なのですが、「まえがき」と書かれた部分だけご紹介させていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。

  *****


         (引用ここから)


親がつけてくれた名前を「純子」、自分で自分につけた名まえを「遊歩(ゆうほ)」という。

自由に、誇り高く「遊び歩く」。

また、「遊歩」には「UFO」ということばもかけている。

未確認だけれども、科学のこころがわかって、かつ夢のある人なら、こころ躍らせて待っているUFO・・そんな気持ちをこめて。


寝たきりに近かった幼き日、遊び歩くという、こどもにとっての生来の権利・自由も、私にとっては夢のまた夢だった。

兄が私に見せようと、オタマジャクシやトンボを取って来てくれると、その目の前でオタマジャクシの缶詰を作ったり、トンボの脚をむしって糸をつけ、永久に飛び続けさせようとしたり。

またある時は、妹の人形を取り上げて、自分がされたと同じ手術を、その人形に施したりもした。

「やめて!」と泣きながら頼む妹の声を聞きながら、メスに見立てたナイフを人形の足に入れたのだった。

小さな「純子」の、閉ざされた自由への激しい渇望は、幾重にも屈折して表現され続けた。


歩けないことが悲しいのではない。

車椅子で動くことが辛いのではない。

私の絶望と無力感は、障害を持つ女性に対する様々な思い込みと、その思い込みの上に作り上げられた社会システム、そうしたものがもたらす抑圧から来ているのだ。


ならば、絶望と無力感から立ち上がる最初のステップは、自分の名まえに最高の自由と誇りを取り戻してやることだ。


もちろん、親がつけてくれた「純子」という名前も嫌いではない。

しかし純子と呼ばれる度に、ハッシとまわりを睨みつけ(実際、子供の頃の写真を見ると、ほとんどいつも私はそんな顔をしている)、闘って闘ってしか生き延びてこられなかった、小さな自分の姿が頭をかすめてしまうのだ。


これから、どんな人生になるのだろう。

一方的に何かを押し付けられ、様々なものを担わされる人生なんて、もうごめんだ。


私が今、反原発の運動や環境問題に関わっているのも、死や病気に対する恐れからではない。

原発や環境汚染が、自由を希求する心、生きようとする意思に対する妨害であるからこそ、戦うのだ。

たとえ苦しみでさえ、いや、とくに苦しみであるからこそ、自分で選び、チャレンジしていきたい。


積極的に「遊歩」と名乗り始めて6~7年、「遊歩」の人生と、抑圧されている人々の代表である小さな「純子」の日々は、解放に向けてまっすぐにつながっているのだと確信してから、更に自分の人生が興味深く感じられる。


この本を書こうと考えたのは、たぶん小さい「純子」なのだろうと思う。

今、私が「遊歩」となってエネルギーいっぱいで駆け回るのを見て、「純子」が「もっとよく私を見て!」と叫んだのだろう。

本が出来上がるまでのこの一年、私のなかでは繰り返し繰り返し、「純子」と「遊歩」の対話、思いの掛け合いがあった。

そして次第にその対話を、まわりの人と共有したいと心の底から思えるようになっていき、その心の動きに合わせて本も完成されることになった。

「この本を読んでくれた人、一人ひとりの感想が聞きたい」と「純子」が、そして「どこかでの出会いを楽しみにしている」と「遊歩」が言っている。

         (引用ここまで)


           *****

わたしも、パワフル遊歩さんに出会い、小さな純子さんをみつけた一人ですよ~。


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2018-03-21 | 古代キリスト教


上の像は、わたしが買った、12世紀からスペインの「モンセラ」という町で祀られている「黒い聖母子像」の写しです。

毎日見ていると、お地蔵様みたいな気もしてきますが、いわゆる「西洋的マリア」とはずいぶん異なったものだと、つくづく思ってしまいます。

引き続き、「黒い聖母と悪魔の謎」馬杉宗夫氏著のご紹介をさせていただきます。

リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



            *****

          (引用ここから)


「ル・ピュイ」の「黒い聖母」は、伝説によれば、1254年に、聖ルイ王(ルイ9世)がエジプトから持ち帰り、「ル・ピュイ」に寄進したものとされている。

この像はもともと古代エジプト時代の「イシス神」であり、それを「聖母像」に作り替えたものと記されている。


しかし、この像の制作場所や年代は定かではない。

確かなのは、1096年以前に、「ル・ピュイ」の地にすでに「聖像」があったことである。

と言うのは、十字軍に出かける前に「自分が生きている限り、祭壇の尊敬すべき聖母像の前に、絶えることなくろうそくの火をともしておくこと」を要求した人の記録が残されているからである。


「ル・ピュイ大聖堂」の祭室外壁には、「ドルイド教」時代の浮き彫りと、それに面して「聖なる泉(井戸)」が置かれている。

この地が、いかに「巨石崇拝」や、「聖なる水の崇拝」の伝統の強い所であったのかが分かるのである。

「巨石(聖石)崇拝」と結びついた他の地は、ロカマドール、スペインのカタルーニャ地方のモンセラ、サンジェルヴァジィの台地などで、「巨石」が今なお存在している。


ボーズ平原に奇跡のごとく建つ「シャルトル大聖堂」にも、古くから崇拝されていた「黒い聖母」があった。

それは「地下祭室」に安置され、「地下の聖母」と呼ばれている像である。

像の下に「出産を前にした聖母」と記されている。

すなわち、伝説によれば、この像はキリストが生まれる以前に制作され、「ドルイド教徒」達が崇拝していたと言われている。


いわゆる「地下の聖母」は、「ドルイド教」時代に遡る最も古いもので、彼らの「大地の女神崇拝」と結びついていたものと思われている。

「シャルトル大聖堂」の「地下の祭室」には、4世紀頃の「井戸」があるように、そこは「ドルイド教徒」たちの「聖なる水」の信仰と結びついていたのである。

この「地下の聖母」の制作年代は定かでない。

「黒い聖母像」がある所は、古いドルイド教の伝統と、新しいキリスト教が同化した場所であることがわかるのである。


しかし、これらの「聖母」はなぜ「黒い」のであろうか?

その象徴的意味は何だったのであろうか?

この奇異に思える「黒い色」の意味を、あえて「聖書」の中に探してみるならば、「旧約聖書」の中に、それらしきものが見られる。


エルサレムの娘たちよ

わたしは黒いけれども 美しい

ケダルの天幕のように

ソロモンのとばりのように

「旧約聖書・雅歌 1章5節」


異教的とも思えるこの「雅歌」の文句については、中世以来、多くの解釈がなされている。

しかし「黒い聖母」がこの文章を典拠にしているという証拠は何もない。


キリスト教以外の宗教を見れば、“死の象徴”とも言うべき「黒」は、必ずしも悪い色としてとらえられていない。

古代神話における「大地の女神」は、しばしば「黒く」表現されている。

たとえば古代エジプト神話における「地母神イシス(死者の守護神であり、豊穣神でもあり、太陽神ホルスの母)」は、「黒く」表現された。


「幼児ホルス神」を抱いて座るこの「イシス像」の中に、キリスト教の「聖母子像」の原型を見る論者もいる。

「イシス信仰」は、地中海世界に広く伝播していったと考えられている。


ギリシャ神話の「大地の豊穣神・デメテール」と、「イシス神」を同一視する人もいる。

また「世界7不思議」の一つと言われた小アジアの「エフェソスのアルテミス(ダイアナ)の神殿」には、「太陽神アポロンの双子の妹にあたるアルテミス(古くは先住民族の「地母神」)の、「黒い像」が描かれていたと伝えられている。


「シャルトル大聖堂」の「地下祭室」にあった「黒い聖母」も、「ドルイド教の大地の女神、豊穣なる大地、その母なる女神・デメテール」の信仰を受け継いだものでなかったか?


「黒い色」は、すべて「大地の女神」に結び付いているのである。

大地は、「暗黒の闇」から「生命」を生み出す根源なのである。


また、各地に存在する「黒い石崇拝」も、これと無縁ではない。

イスラム教の聖都・「メッカ」のモスクにも、「黒い石」が「聖石」として飾られている。

興味深い現象である。


「黒い石」は、錬金術的な意味も持っていた。

錬金術師たちの最初の重要な仕事は、万有還元能力があるとされた「仙石」を作りだすことであった。

そのためには、まずその第一の原料を集める必要があった。

この原料は重く、割れやすく、その上砕けやすい、石に似た「黒い物質」であり、簡単に手に入るものとされていた。

錬金術師たちは、この最初の原料を探すためには「地下に」、「金属を含有する鉱床」に行かねばならない。

ゴール地方の錬金術師たちは、「ドルイド教」の神官を兼ねていた。

彼らは、「見者」「識者」「魔法を使う博士」であった。

彼らの儀式や仕事のためには、しばしば「地下」や「洞窟」が選ばれた。

このことも、「黒い聖母」がシャルトル、クレルモン、ロカマドール、モンセラなどのように、「地下」
や「洞窟」がある場所に見出されるという事実と一致して面白い。


「黒い聖母」は、「物質界」から「精神界」へと、我々を導く役割が担わされていた。

「黒い聖母」は大地からあらゆるエネルギーを吸収し、それを「天上界」の力と結びつける。


「緑色」は、大地から生まれてくる植物の色であり、物質と精神という異なった両者に調和をもたらす色である。

その緑色が、「聖母」の衣の色として与えられる。(後に青となったという)

他方「赤」は、太陽の色であり、愛やエネルギーを生み出す。

それは救世主キリストの衣の色となる。

すなわち「黒い聖母」は、物質界の「黒」=「現世」と、精神界の「赤」=救世主キリストとを結びつける仲介者としての役割をもっていた、とされる。


アルルの公会議(452年)、ナントの公会議(658年)、トレドの公会議(681年)、さらにカール大帝によって公布された法令(789年)などは、繰り返し、「樹木・石・泉・井戸を崇拝すること」を禁じている。

この事実は、ゴール(フランス)の地がキリスト教化された以降も、根強く「ドルイド教」の信仰が残っていたことを物語っている。

これら土着の民間信仰との衝突をさけるため、これらの地の「聖母マリア」は、「土着の地母神」との一致が求められ、あえて黒く塗られたのではなかろうか?


12世紀ロマネスク美術において、なぜこのように多くの「聖母像」が表現されるようになったのか?

そしてそれは、すでに存在していた「聖母表現」のどのタイプに従ったのか?
という問題が残っている。

「神の母」としての「聖母マリア」の「神性」が認められたのは、431年、「エフェソスの宗教会議」においてであった。

それ以来、東ヨーロッパのビザンチン世界では、「聖母マリア」表現が増えていったが、その大部分は「幼児キリストを抱いた聖母子像」としてであった。


西欧における最初の「聖母子像」は、800年頃、「アイルランド写本」の中に現れている。

その後、12世紀ロマネスク美術と共に、独立した「木製聖母子像」が現れ、またたく間に西欧中に伝播していくのである。

12世紀に西欧に現れた「聖母像」のタイプは、「玉座のマドンナ」であった。

「黒い聖母像」も、このタイプに従っている。

それはまさにヨーロッパに「聖母マリア崇拝」が高まり、「聖母マリア(ノートルダム=フランス語で「我らの貴婦人」)」に捧げられた大聖堂が建てられ始めた時と対応しているのである。

そして「聖母の衣」を保持するシャルトル大聖堂自身も、ヨーロッパにおける「マリア崇拝」の中心地になっていったのである。

            (引用ここまで)

             *****

わたしは、このテーマの本を何冊も読んだのですが、ここにも書かれているように、あのカトリックのシンボルともされる「シャルトル大聖堂」においても、「黒い聖母子像」が崇拝の対象となっているということに、非常に驚き、間違いではないかと、何度も確かめました。

wikipedia「シャルトル大聖堂」


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キリスト教の世界に何人も登場する「マリア」についての考えの続きです。

なんと、聖母マリアの像の中には、「黒いマリア像」というものがたくさんあるということです。

上の写真は、わたしが購入した「黒い聖母像」です。

スペインの「モンセラ」という町で、12世紀に造られた「黒い聖母像」の写しです。

「黒い聖母」について書かれた本を何冊も読みましたが、非常に複雑で難解でした。

その中で、「黒い聖母と悪魔の謎」馬杉宗夫氏著をご紹介しようと思います。リンクは張っておりませんが、アマゾンなどでご購入になれます。



             *****

            (引用ここから)

フランス中央高原に、ロカマドールという町がある。

ロカマドールは、変わった洞窟や荒々しい岩肌を露出する絶壁など、驚くべき自然現象を示している所である。

突出した岩や断崖に囲まれ、そこに中世の街が、なお存続している。

それがロカマドールの町である。

岩山を背にした道幅は狭い。

その岩山から張り出して重なり合う家並みや、左右の土産物商店に興をそそられながら進むと、やがて高地に至る石段が続いている。

石段を登りつめた所に、7つの聖堂が建つ広場があり、まさに宗教都市という面影がある。


これらの聖堂の中で、人々の信仰を集めているのが、「奇跡の礼拝堂」と呼ばれている「ノートルダム聖堂」である。

岩山をうがって造られたこの小さな礼拝堂こそが、この地に住み着いた聖者・アマドールが聖所にした場所と言われている。

この聖堂の前の岩肌には、ロマネスク時代の壁画がなお残されている。

この礼拝堂の祭壇に「奇跡の聖母」と呼ばれている木造彫刻がある。

これがなんと「黒い聖母」像なのである。


薄暗い聖堂の中で、ろうそくの光に照らし出されている1メートル足らずの聖母像。

それが我々の注目を引くのは、その怪異な外観である。

やせ細った胴体や腕。

それと対比をなすかのような、ふくよかな腹部と胸部。

こうした外観に、一層の異様さを与えているのは、体全体を覆う「黒い色彩」である。

聖母は、頭から足に至るまで、全身が「黒い色彩」で覆われているのである。

「聖母マリア」には「不吉な黒色」は似つかわしくない、と思いながらも、その異教的な、謎に満ちた姿は、我々を捉えて放さない。

逆に「黒色」だからこそ、神秘的な力を持って迫って来るのかもしれない。

小さな「聖母像」に迫力を与えているのは、確かに全身を覆う「黒色」である。

「黒」は不思議な力を持っているのである。


「奇跡の黒い聖母」を祀るロカマドールの地は、スペインの聖地サンチャゴ・デス・コンポステラに向かう巡礼路の一つに当たり、12世紀以来、多くの信者を集めてきた。

英国王ヘンリー2世やフランス王ルイ9世を始め、フランスの歴代の王は、この「聖母」に贈り物を捧げるためにやって来た。

「黒い聖母像」は、水夫や囚人の守護神として、また多産や幼児の「守護神」として崇拝され、キリスト教国で最も崇拝を集めた「聖母像」の一つになっていたのである。



我々は、特にフランスの中央高地を車で回る時、あちこちでこのように黒く塗られた「聖母像」に遭遇する。

1メートル足らずの「聖母マリア」は、座像として幼児キリストを膝の上に抱いている。

通常、「聖母マリア」は「黒く」表現されることはない。

しかし、「黒く」塗られたいわゆる「黒い聖母」は、特に中央高地を中心に多く存在しており、1972年「アトランティス」という考古学雑誌に掲載されたリストによると、フランスだけでも200体以上に及んでいたことが明らかにされている。

これらの像の多くは12世紀、いわゆるロマネスク時代に制作された。

12世紀を中心に、同時的に出現している「黒い聖母」は、それらが偶然の要因で「黒く」なったのではなく、なんらかの理由で、当初からにしろ、または後の時代にしろ、意図的に「黒く」塗られたことは確かなのである。


キリスト教がゴール(現在のフランス)の地に浸透するまで、ゴールの地は、ケルトの国々を支配していた「ドルイド教」で覆われていた。

この宗教はある種のアニミズム(霊魂崇拝)であり、「聖なるものは自然の中に宿る」とされた。

彼らが崇拝していたのは、自然の中に存在する聖なる樹・・樫、ぶな、宿り木。

聖水・・泉、源泉、川。

聖石・・メンヒル・ドルメンなどであった。

そして注目すべき点は「黒い聖母像」が在り、またその崇拝のあった地は、「ドルイド教」時代にそれらの崇拝が行われていた場所と一致していることである。

ロカマドールでは、岩山を穿って作られた聖堂の内に「黒い聖母像」が祀られている。

このように「黒い聖母像」は、「巨石」と結びついた場所にしばしば見出される。

中央高地の中でも、小高い丘の並ぶ「ル・ピュイ」の地は、キリスト教化される以前から「ドルイド教徒」達の間では、最も重要な場所の一つであった。

「ル・ピュイ」の街はフランスでは珍しい火山地帯で、鋭い角度を持つ巨大な丘が3つもそびえ、一種異様な景観を誇っている。

「ノートルダム大聖堂」が君臨する丘も、その岩山の一つである。

「大聖堂」の西正面はイスラム風の装飾やアーチで飾られているが、この西正面の入口を入ったところに「熱病の石」と呼ばれる「平らな巨石」が置かれている。

この「巨石」は「奇跡を呼ぶ石」として、古くから崇拝されていた。

伝説によれば、「聖母マリア」が、熱病にかかった女性を憐れみ、この「石」の上に寝るよう、指示したという。

そして「黒い聖母」が置かれていたのは、この「巨石」の前だったのである。

「ル・ピュイ」の「黒い聖母」は、伝説によれば、1254年に、聖ルイ王(ルイ9世)がエジプトから持ち帰り、「ル・ピュイ」に寄進したものとされている。

この像はもともと古代エジプト時代の「イシス神」であり、それを「聖母像」に作り替えたものと記されている。

しかし、この像の制作場所や年代は定かではない。

確かなのは、1096年以前に、「ル・ピュイ」の地にすでに「聖像」があったことである。

と言うのは、十字軍に出かける前に「自分が生きている限り、祭壇の尊敬すべき聖母像の前に、絶えることなくろうそくの火をともしておくこと」を要求した人の記録が残されているからである。

「ル・ピュイ大聖堂」の祭室外壁には、「ドルイド教」時代の浮き彫りと、それに面して「聖なる泉(井戸)」が置かれている。

この地が、いかに「巨石崇拝」や、「聖なる水の崇拝」の伝統の強い所であったのかが分かるのである。

「巨石(聖石)崇拝」と結びついた他の地は、ロカマドール、スペインのカタルーニャ地方のモンセラ、サンジェルヴァジィの台地などで、「巨石」が今なお存在している。

             (引用ここまで)

               *****

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