解釈の仕方は僕には難しいので、原典にあった例題で説明して行きます。

ただのAさんではなくて、「人間」という冠が付きます。

自然との対比は日干としての個人ではなく、人間としての個人という設定です。

 

位置法で比較する場合は、方向は加味しません。同じ技術で流動法と呼ばれるものになると方向が加味されてきますが、ここでは、剋か相生かの違いを観ます。

もうひとつ、比和は意識と考えて、剋と同じ扱いです。

 

そうすると、Aさんは主星から見て四方向、全部剋です。

自然と一致するのは東と北、不一致は南と西です。

 

自然と一致しているところは無意識(自然、中庸)に生きられるところで、不一致のところは、意識して生きるところです。

意識と無意識の違いの算命学的な解釈を確認してみます。

 

自然とは当たり前に生きる、あるがままに生きると考えて良く、特別に知恵を使ったり行動を起こしたりしなくてもよい生き方なのであります。
それに対し不自然な生き方とは、当たり前やあるがままに過ごすと、時の経過とともに不自然さが生まれて来るということであります。
そのために、常に意識し工夫を凝らす必要があるわけです。
ただし自然、不自然といっても、この場合は宇宙に対してであり、自分自身に対してであります

 

最後の自然不自然というのは、外から見たことではなく、自分と向き合ってのことで、そしてそれは宇宙と向き合っているということです。

人間でいきるってことは、そういうことなのでしょう。

 

これは位置法を離れても言えることだろうと思います。

人生って、たぶん、自分対宇宙(神)この構図以外はないんじゃないでしょうかね。

他にあったとしても、これで事足ります。

 

すべて自分と神の世界なら、世の中から嫌な人はいなくなります。

不愉快な環境もなくなります。

だって、そこにそれがある理由は、自分か神かどちらかしかないのですから。

 

でも、外の環境を作ると、嫌な奴がいっぱい出てくるし(笑)

腹が立つ出来事は山のようにあちこちにあります。

それを自分か神に振り分けるのですが、どちらに分けても、自分の世界の問題ということになります。

 

誰も悪くない・・・

 

そう考えると、位置法の人間〇〇という設定は〇〇という「個人」を抜いて考える方がいいのかもしれません。人間と宇宙、まさにミクロコスモスです。

 

「個人的な幸福」を考えるから不幸がやってくるのであって、「人間の幸福」を考えると、人生の個別的諸問題は激減するように思うのです。

個人的な欲望は・・・

 

はいはいはい! ご高説はわかったから、先進めてくれんかのう(^^)v

 

(-_-;)ようするにですね、自然と同じ構造になっているところは、無意識に過ごせるところで矛盾しているところでは、意識するところ、考えて努力して、という人間的な作業が必要ってことです。

 

続きは次回<(_ _)>

 

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