十大主星も十二大従星も、人間の霊魂を構成しているそれぞれの分子(気)であることは同じです。

それでいながら、成り立ち方や現れ方は全く違います。

 

 

十大主星は心(日干)によって、星が選別され、10の星に分類されます。

掘り下げてみると、日干の陰陽五行や霊魂の気の違い、なによりも日干の置かれている立場の違いなどによって、表出される星の内容は変わってきます。

 

ところが十二大従星は日干が何であれ、日干の心を通っても本質は変わることなく表出されます。

ですから、十二大従星の意味は、すべて同じです。

 

そういう見方をすると、理論的には十二大従星には「中殺」も「陰転」もないのではと、思えてきます。

そう感じるのは「心」のほうで、そうなるのは、エネルギーと環境の誤差です。

 

そして十大主星は空間から成り立つ星(気がそのまま星になる)であったのに対して十二大従星は時間と方向(十二支)と日干(心)との相対関係から生まれる星です。

 

ここでまた、やっかいな時間の問題が出てくるのですが、難しい理論づけはやめて、時間とは空間が通る位置を標した標識(十二支)という定義でやっていきます。

 

時計の文字盤と同じです。「Ⅲ」という文字盤自体は時間ではありませんが、そこを針が指し示すと、3時という時間が生まれます。

動いているのは時間(文字盤、十二支)ではなく、世界を作っている基の空間の方です。

 

人間でいえば、肉体が時間です。

人間(肉体)は生まれた時から、時間は西の死へ向かって動き出します。

肉体の動きが時間です。

人間は時間が過ぎるから年を取るのではなく、自分(肉体)が年を取る方向へと動いているから年を取るってことです。

 

外に動いている時間がないってことは、自分を離れた現実なんてないってことです。時間(存在)は自分の肉体が表出しています。

 

時間が個人的な物だってことは、この現実は確かにあるものではなく、自分にとっての現実でしかないってことで、それをバーチャルというなら現実はバーチャルです。

 

そもそも、霊魂を主役と考える時点において、現実が仮想であることはそれほど驚くことでもありません。算命学的常識 ?^^? だと思っています。

だからどうでもいいのではなく、だからこそ、ちゃんと作りましょうってことです。

霊魂が喜ぶようにです。

 

現実は肉体の属性なんですよね。たぶん。だから、自分を離れて外の世界を設定すると人生は迷路に入ります。

〇〇が悪いとか、不運な出来事があったとか、そういう見方はできなくなります。

それが肉体の属性なら、左手が悪い、右手がやったことです、なんてことはいえないでしょう。

 

そして、時間(肉体)には霊魂(空間)が入っていて、それもまた時間と一緒に移動することになります。

 

生まれた時の肉体の姿かたちと大人になった時の姿かたちは全く異なるものですが、途中で入れ替わっているわけではなく、同じ肉体が変容しているわけです。

そして、そこに入っている霊魂もまた、肉体に見合ったものへと変質しながら動いています。

 

この肉体の誕生から死ぬまでの霊魂の動きを十二区分したものが十二大従星です。

 

 

〇〇の時代という命名は原典にあるものをそのまま書きました。

塾生との勉強会でも、天将星を頭領とか大将とかよりも、もっといいネーミングはないのか話し合ったことがありますが、ここでは「家長」となっています。

少年→青少年→青年 という推移も微妙なのですが、、、、言葉よりもニュアンスで受け止めてください。青少年時代は、「少年と青年の間」ってことです(過渡期のニュアンス)。

 

霊魂主体のため、生まれる前から死後まで4つの時間帯があって、現世は8つに区分され(全部で12の時間帯)、それを区切っている「||」という標が、十二支です。

間にどういう標(12支)が入るのかは、日干によって変わってきます。

 

 きょうはこれで終わります。

 

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