『1995年のBBCの番組のインタビューでダイアナは何年も過食症に苦しんでいることを明らかにした。ダイアナはインタビューの中で「プレッシャーに影響されました。公務で外出する日は胃も心も空虚になって帰宅するのが常でした。帰宅すると先ほどまでたくさんの人を慰めていたのに、自分自身をどう慰めたらいいか分からず、冷蔵庫の中の食べ物を胃の中に流し込むのが習慣になってしまったのです」「一日に4回か5回、時にはそれ以上お腹一杯に食べます。すると気分が楽になります。二本の腕で抱かれているような気分になるのです。でもそれは一時的なものです」とその苦しみを語ってい』(Wikipedia)

 

これはインタビューですから、対外的な「かっこつけ」もあったでしょう。

 

『ウェストヒース学校の同級生の証言によればダイアナは学生時代から大食いで太り気味だったという。マスコミから注目されるようになってから、太って見えないかを気にするようになり、過食した後に吐き出すという独自の「ダイエット法」を行うようになったという。侍従にも「すごくいいダイエット方法を見つけたの。好きなだけ食べて、その後でこうするだけ」と言って、吐くジェスチャーをして見せたことがある。これが過食症の直接の原因で王室生活のストレスでどんどん悪化していったという流れのようである』(Wikipedia)

 

これが真相なのかもしれません。

いずれにしろ、習慣化した過食症に苦しんでいたってことは確かなようです。

 

 

ダイアナ妃は、どのインタビューでも本音に近いところを話しています。

これはおそらく月年の害でしょう。出入り自由みたいな意味があって、心と外の間の扉が壊れて閉まらない感覚です。それゆえに、外の出来事に過敏に反応するとともに、内にあることも抵抗なく出て行きます。

それでも、心の中は鳳閣星禄存星で演技ができる客観構造ですから、自分なりの演出はできます。

 

 

『ダイアナが熱心に取り組んだ慈善事業の一つがエイズ問題だった。ダイアナは「英国エイズ救援信託基金」を財政支援し、また積極的にエイズ患者と触れ合うことでエイズ患者に対する偏見を無くすことに尽力した。エイズ問題以外でも様々な慈善事業に取り組み、英国産婦人科医師会の死産・新生児死亡・不妊症問題の研究のための募金機関「バースライト」、麻薬中毒者やアルコール中毒者の救済のための慈善団体「ターニングポイント」などに財政支援を行った』(Wikipedia)


車騎星が石門星へ流れる形が天干(役割・目的)にあると、「犠牲も厭わずに社会活動に励む」という部分が強く出てきます。

これに現実二つの禄存星が加わると、独善的な側面はありますが、私心なく奉仕活動を一生懸命やる人を作ります。

 

またこの時の石門星は乙→甲と自分が大きくなる石門星で、公務の時には乙が甲に変身している感覚はあるでしょう。

大きい自分を演じていることの疲れと本来の自分とのギャップもまた、精神を病むことの原因の一つだろうと思います。

 

後述しますが、この甲を空けておくと(自分が入れないと)いいことはないんですよね。目障りな存在(自分よりも強い甲)が目の前にいて、いつも気になって仕方ないでしょう。そこに日月の支合が働きます。

乙→甲の支合は、午未の「現状と無関係に夢やロマンが先行する」南方支合なので、常に変身したい人になりたいという願望が強くあったと思います。

 

若い時は、兄弟姉妹が入るので、兄弟姉妹への憧れやライバル心や複雑なものがあったと思います。

 

『サラ・ブラッドフォード著のダイアナ元妃の伝記『Diana』の中では、幼い頃のダイアナ元妃がセーラ(姉)のことを「英雄視していた」ことが綴られている。ダイアナ元妃にとってセーラは親友であり、何よりもチャールズ皇太子を紹介してくれた存在だった』

 

ダイアナ妃の場合、甲(姉)は、憧れに近かったようで、「姉のようになりたい」支合だったのでしょう。

実際、結婚したチャールズ皇太子は姉の交際相手で、姉から紹介されたと書かれています。

 

結婚後、「王妃」となると、甲は憧れだった大きな存在になったわけですから、乙→甲は日常的だったろうと思います。

 

公務で外出する日は胃も心も空虚になって帰宅するのが常でした』

 

公務で外出する日は「甲」になって、別人を生きている感覚はあったでしょう。

乙と甲の落差は大きく、元に戻る儀式のような形で、過食と嘔吐があったという想像もなりたちます。

 

『一日に4回か5回、時にはそれ以上お腹一杯に食べます。すると気分が楽になります。二本の腕で抱かれているような気分になるのです』

 

甲が公務遂行する姿は、自分ではない別人が生きている感覚で、自分という現実に戻るためには、肉体(胃袋)を動かすことで現実味を復活させたのかなと思います。

 

カレンさんもそうですが、ありたい自分とは別の形で現実が展開していくと、それはありたい「自分」にとっては虚構に近い生き場であって、取り戻したい現実感を肉体とのセッションに求めた、というのも疑える構造です。

 

食べるとかsexするとか、最もシンプルでリアリティーのある現実(肉体を通した現実)がそこにあるのだと思います。

 

乙がお腹いっぱいに食べる→大きく(甲に)なる、という想像も無理やりですが^^できます。

二本の腕に抱かれている気分は、乙と甲が支合している姿を連想してしまいます。

 

また、それ以上に、この甲が自分(乙)に与える影響は大きなものがあります。

 

 

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