陰陽説については、また、五行の陰陽のところでやるとして、今日は五行の働きの話しをしましょう。
五行には、相生と相剋という二つの働きがあると前回お話ししました。
あいだに、変なの入ったから、わすれちゃったぜ。もう一回お願いします。
変なのではなく陰陽説です。わかりました。まとめてみましょう。
五行説によれば、五行は単独に存在するものではなく、相互に影響し合いながら成り立つものです。
五行が人間の原理でもあるので、すべて置き換えて考えてくださいね。
人間も一人では生きられずに、互いに生じ(助け)生じられ(助けられ)生きています。そして、一方通行の人生(前にしか進めない)を歩みます。
五行には次のような法則があります。
① 五行は木→火→土→金→水→木・・・という流れ(相生)をもち、互いに影響し合いながら変化して行きます。相生作用。
木が火を生じ、火は土になり、土は金(石や岩)を生じ、金は水を生じ、水はまた木を生み・・・と循環します。
②五行の変化は一方向(前)にしか進みません。水はまた木に帰って循環しながら前に進みます。
五行は直進します。後述する時間の概念とも一致し、そしてそれは存在の本質にもつながることです。それが循環して変化生成を作っているという循環思想を生みます。
③五行は生じる関係だけではなく、互いにぶつかりあう(相剋・そうこく)ことで新たな変化を作り出しています。
木は土を剋し(ぶつかるこわす)土は水を剋し、水は火を剋し、火は金を剋し、金は木を剋し、木は・・・と回ります。これは相剋作用と呼ばれるものです。
人間もそうですね。いつも滑らかに前進できるわけではなく、時に躓き、打ち砕かれ、壁にぶつかり、その都度変化しながら生きるのが人生です。
剋作用があるために、成長できるともいえます。
これを「五行の相生相剋」と呼びます。
この図からもわかるように、自然の五行の相生相剋には中心がありません。
人間が中央に位置しない五行の配置図で、人間が外から眺めた自然の姿です。
神を客観視した世界観といってもいいでしょう。そこには方位もなければ意味もありません。
五行の世界は純粋な気の世界です。
次に来るのは、人間もまたこの五行の世界で作られているはずだという考えです。そこから、人間自身もまた、五行を元素として成り立っているという理論が生まれました。
五行によって造られている人間を自然五行の中心に置くことによって、外の五行と内の五行とが呼応するようになり、人間と自然(神)とが一体になる姿がイメージされます。
これが人間のデフォルトの姿です。
ところが長い歴史の中で、人間が自然を変化させたり、人間と自然とは同じではなく、まったく異なった構成要素で成り立っているという感覚が当たり前になってきました。人間が独自の存在様式を持つようになるほどに、人間は自然から遠くなって行きました。
同じ五行で作られているのに、どうして人間と自然は全く違ってしまったのでしょうか。飛躍しすぎていてよくわかりませ。
そうよ。まったく異なった構成要素ってなんですか。五行以外に構成要素はないんでしょう?
言葉がたりませんでしたね。構成要素はおなじなんですが、人間には五行を入れる入れ物(肉体)があって、これがただの入れ物ではないところに構成要素の違いがあります。
もうひとつは、入れ物と五行とを調整する、「私」という意識(心)が生まれるところも違いがあります。
このあたりは、今は考えなくていいです。後に説明します。
ここでは、自然と同じ五行でつくられながら、同じとは思えないほど、人間は自然とは違った世界を作るようになったと理解してください。
みなさんも、ここで五行を知るまでは、自分と自然が同じだなんて思ってもみなかったでしょう。
おいら、知った後でも、山と人間が同じだなんて思えないぜ(^^)v
まぁまぁ、確かに、同じだとは思えないですよね。それが普通です。
古代人にとって人間が自然の一員足り得たのは世界の中心が人間ではなかったからです。
それが人間がどんどん進化していくことによって、自然をもコントロールするような力を持ってきて、世界の中心が人間に変わってきました。
神はみえなくなり、自然は人間に従属するものになってしまったってことです。
そこで、自然(大地)が中心だった五行から、人間が中心の五行という新たな五行説が登場することになります。
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