前回難しかった、自然界が現実存在で人間はそれとは異なった形で、神と向かい合うような存在の仕方をしているという点を、もう少し分解して考えてみましょう。スピ算の占いはここを起点とするので、この違いを理解することがとても大事なのです。
「現実存在」とか「存在の仕方」という言葉がでてきましたが、この「存在」という言葉の意味がわからないと、何を学んでいるのかわからなくなります。
今、目の前にノートや机があります。隣には、仲間が座っています。
この占いが生まれた古代中国では、目に見えるもの、または触れて実感出来るもの、または形あるものとして認められるもの、これが「存在」するものということでした。
例えば、現代では空気だって存在していると考えますが、当時では、空気は風として感知され得たものでした。
風は方向を知らせる神の属性としてとらえられ、他の五行のような存在とはとらえられていません。
同じように考えれば、人間もまた見た目では明確に存在していて、触れば質量を感じられる立派な存在物です。
それがなにゆえに、自然と同じ存在物になっていないのか・・・??
現代では人間は何でできているかは、切り口によって変わってきますが、様々な原子の集合体として作られているとも考えられます。
これは算命学的にいうところの、人間は五種類の気で作られているというのと同じことです。
科学的には、自然も人間も原子でできていて、その意味では自然と人間を同列に原子から作られた存在物として並べることはできるでしょう。
ところが人間は自然と同じ五行で作られていても、科学のように他の存在物と同じにはなっていません。
先生、もし、科学が人間は五行でできていると発表したら、これまでの人間観や世界観はひっくり返る可能性がありますよね。
そういう意味では、所詮原子の集合体といわれたら、大ショックを受けてもいいはずなのにそうならないのはなぜでしょう?
科学は現実(人間)は既成の事実であって、そこを出発点にしているからでしょう。科学が人間を分析しても、それによって現実や人間存在が否定されたり、ひっくり返る可能性はほぼないでしょう。
算命学は人間を分析して五行にたどりついたわけではありません。
初めに真理ありきで、それが五行です。
なので、ここを追求していくと人間の在り方がひっくり返る可能性もあるでしょう。ただ、五行は科学的に証明できることではないので、世に認められる理論にはなっていません。
でもね、だからといって正しくないわけではないです。
科学が前提としている現実存在そのものが真実ではない可能性もあるわけですから。
現実の「有」を前提にしないからこそ、宇宙の真理に近づいて行ける、という考え方をしてみてください。
自然という存在物を挟んで神と向き合っている図は感慨深く、人間の秘密をすべて表しているとさえ思えます。
何が違うのかを推測すると、原子の集合体は存在物であるのに対して、五行の集合体は存在物ではなくて、五つの気が存在しているという意味合いのほうに比重が置かれているということだと思うのです。
ちょっと待ってセンセ。これまでの話しはすこーしわかってきたけど、またわからなくなった。
おいらと机は、同じ「存在」だけど、中身が違うから同じじゃないってこと?
そんなの当たり前じゃん。机とおいらは全く違うにきまってるじゃん。
だからさ、その中身は違うけどそれをもっと細かくスーパー顕微鏡なんかでみると結局は同じってことよ。
パスタとご飯は違うけど、炭水化物ってことでは同じってことですよね(^^)/
だったら、自然と同じでいいのにねって、思いますけど・・・
図が正しいなら、人間は存在する「もの・人」ではないってことです。
でも肉体は存在だから、人間は「肉体と五行という気」の二つからなる「存在」で、図にある「人間」は五行のことで、肉体の方は動物か自然五行の中にはいっていることになりますよね。それ以外には考えられません。
おめーが勝手に決めるなよ (#-`д-)ガキノクセシテエラソーーニ! ナマイキスギル!
次回はそれについて、考えてみましょう(^^)
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