12月22日
★次元講座ー和合→生きる
「生きる」ことの根底にあるのが「和合の木気」という結論は意外な到達点です。
ただ根幹となる石門星は算命学的な仲間でもなければ、集団の守備本能でもありません。ずっと離れた位置にそれはあります。
イメージとしては女優や俳優です。
月干に石門星がある女優俳優はたくさんいます。
自分(丁)ではない何か(丙)になる。それは「誰」にでもなれる機能です。
演じる側からすると、自分ではない何かは犯罪者の世界かもしれないし、財閥の御曹司かもしれません。
なんにでもなれるのですが、それは本来の自分が求めるものではないし、自分が与える何かでもありません。そこで死んでも大金持ちになっても自分とはなんの関係もない世界です。
石門星が鳳閣星へ流れる姿は、本来の自分を捨てて役柄の自分になり切ることに似ています。自然に別人を生きることで、それは「私」ではない人生です。
生きるとは、「私とは何の関係もない世界を生きること」かもしれないのです。
『現代人は「生きる」というと働いたり、役割があったり、家庭があるなどを連想するわけですが、正確には「生きる」ということと、働く、仕事、役割などの間には何の関連もないのであります。
「生きる」ことを目的とすれば、仕事、働き、家庭などは手段なのであり、ここで論じている「生きる」は手段を考えているのではありません。真に生きることに対する手段は、それこそ星の数ほど考え出せるはずであります』
おそらく、これが東洋思想の神髄だろうと思います。
当然、自分が属する現実世界で、成功したり、幸福になったり、それもまた「生きる」こととは何の関係もないことになります。
とはいえ、手段だからどうでもいいってことでも意味がないってことでもありません。手段は生きることにおいては必須の項目で、手段なくして「生きる」ことにはたどり着けません。ここに人間の難しさがあります。
ただそれは手段でしかないということです。
これが実感できれば、仙人の道が開けて行くのでしょう(^^)v
もしかして、これは「生きている」ではないかもしれないってことです。
どれも人間の側(人間が欲望するエネルギーで生きている)の「生きる」です。
気・心・体でいえば、本当の気(霊魂)が参加していない、欲が貼り付いた気と心と体が作り出した人生です。
『生きるという現象がもつ意味は実に大きく深いものであります』
おそらく高尾先生だけが到達できている世界かもしれません。
ただ「生きるとは」「私とは」「人生とは」という問いかけを続けていけば、それが真摯であるほど、そこ(有)を超えた向こう側へとたどり着くのだと思います。
石門星(気・霊魂)→鳳閣星(心)=真に生きる という流れでは、石門星(霊魂)がそのまま心を作っています。
道家の人々とほぼ同世代のギリシアの哲学者、ソクラテスも言っています。
「人生の目的は魂を育てることだ」
*『 』内はすべて「原典算命学大系」からの引用です。
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