5月13日

例えば、自分がこうありたいと思ったとして、ありたい自分を目指して現実を作って行きます。

それでうまくいくこともあれば、いかないこともあります。

なぜ?

 

これが神様と向き合っていることの意味です。

現実は自分が作っているようですが、実際は神(自然の法則)との共同作業なのだろうと思います。

 

自分の思い通りに人生を作れないのは、思いが足りないからではなくて、共同作業者の神がその通りに動いてくれないからです。

 

日々の出来事は自分と神様とで作っていると考えます。

自分の気持ちは自分ではよくわかりますが、神様が何を考えているかはわかりません。神様の考えていることが目の前の現実になるわけです。

 

自分よりも神様(現実)が正しいのです。

 

自分の道が自然の道に合っているかどうか、その答えが目の前の現実です。

 

そう思うことができると、自分と神様とが一体となって人生を歩む入口にたどり着きます。

 

『宇宙に起こり得るすべての現象を神として捉えていくのですから、ある意味においては人間自身もであるわけです』

 

だから、宇宙にいる神様に祈りをささげるのではなくて、自分の中にいる神様を宇宙の神様に近づけることが思い通りの人生を作ることにつながります。

 

『この考え方の根底になっているものは、神(自然界)に助けを求めるのではなく、神が教えていることを人間自身がつかみ取り、それを実行して行こうというのであります。そのために、人間自身の心の中の感性と次元をより高く保たなければ、神の高い次元の意志はつかめないと考えるのです。「人間の心の感性が鈍ければ、当然神の低い意志のみつかむことになる。人間の心の成長が高く進めば、高い位を持った神に接することが出来る」と説いているのです』

 

「神が教えていること」それが目の前の現実の出来事です。

神様は何がいいたいんだと思うことが感性を高めることにつながります。

「自分が」と思い込んでいると、感性は鈍ります。感度は他の何物でもなく、神を感じる感度です。

 

目が内側(自分)だけに向いていればいるほど、心は肉体(人間の世界)へと下降して行きます。次元の上下のことです。

すべてが自分だと思うことができると、神の入口が見えてきます。

 

『自分自身を真に知るという修行は、決して遠くに存在するわけではありません。
両親を観察し、兄弟をよく見定め、友人の世界も理解してというように、自分自身の身の回りの中に自分を知る方法があり、神がそれらを本人に見せることによって知らしめているのであります。そして最も注意をはらわなければならないところは、自分自身の心と行動であります』

 

自分の身の回りの現実(関わっている人も含めてすべて)に自分がいるということです。そしてそれは、自分の心が作った現実の姿です。

 

顔を合わせれば言い争いになる人がいたら、その人の中にも自分がいるってことです。言い争いは、神様(自分)が自分を知るために起こしていることです。

それが「神がそれらを本人に見せることによって知らしめている」ということです。

「それら」とは争っているという自分の現実です。

 

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