4月21日

「必要なものを、必要な時に、必要なだけくださる」

この必要は自分にとって、と思っていたのですが、くださる方の神様の御心からみると、必要は神様にとっての必要ということでした。

 

算命学的にも神は直接人間を支配しないし、人間界の在り方に干渉はしません。

その代わりに森羅万象の中に神はいて、人間に、常に「必要」をしらしめていることになります。

それを現実的には「くださる」という実感で知るわけです。

 

『算命学では自然現象のすべてを神の意志として捉えて行くために、仏教や道教などのような人格化された神が生まれず、神は人間の心の中と、大宇宙を結ぶ線によってつながっているという理論になるのであります』

 

「自然現象」の中には、人間界も含まれています。

人間は自然の一部というと、抽象的ですが、神の意志が反映した「自然現象」というとらえかたがいいでしょう。

 

「神の意志」というというと宗教的呪縛を感じますが、この意志は明確な意図や目的があるわけではなく、神の意志=自然の法則です。

 

『神は客体ではなく人間の心そのものにそなわる主体なのだといっているわけであります。心の成長を学問によって成長させるもよし、信仰によって成長させるもよく、あたえられた生活、職業の中で高めてもよいというのです』

 

 

 

人間の主体というと「私」と思うのですが、神様が心に備わる主体ということで、自分が生きているという背景には、神が生きているという意味があるといいます。

「私は神である」というと大事ですが、そういう神ではなく、私は主体的に自然の法則で生きている存在です、という感じでしょう。

 

算命学も本来は、心を神の入口まで高めるための学問であったはずなのですが、原理部門は難しいのと本が高いことで^^浸透していません。

 

方法はなんであれ、心を神の入口まで高めるとどうなるのか?

 

『心がある次元まで浄化され、ある次元まで高められたところに神とつながる入口があるのです。その入口に到達すると、学ばなくとも、大自然の真理を神が知らせてくれるようになっているのです』

 

そこ(神の入口)へ行くと、自然の法則がわかるってことなんですよね。

わかるというのは理解するではなくて、実感する、です。

 

 

まだこうした理論も算命学も知らないときに、僕は、結果的に神の入口に近づいていたのだと思います。

 

自分と神の入口を直結する。これは書かれているように、心を浄化しなくても高い次元を身につけなくても、できるんですよね。

 

図にある通り、神と自分とを遠ざけているのは「心」と考えると、心を無くせば自分と神の入口は一気に近づくことになります。

 

心を無くすのはそんなに難しいことではありません。だれでも一度や二度は経験していると思います。

 

「絶望」=心を亡くす

 

当時、そんなことを考えていたわけではありませんが、絶望で生きる望みもなくして、どうでもいいと思っていた時(心を亡くした時)、神様がいるのかと思えるような出来事に遭遇したのです。


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