壬・午・天報星という、どちらかというと動きのある激しさを含んだ干支イメージとは裏腹に、牽牛星司禄星という地味な星を持っている。
不安定な干支意味と、司禄星→牽牛星と流れる星の意味は一致しない。
通常この流れは受け側の牽牛星の意味が強くなって、しっかりとした役割意識を持って日常を作って行く人になる。
この組合せに関わらず、主観星(調舒・司禄・牽牛・玉堂・石門)が重なると、無意識かつ個人的傾向が強まる。
極端ないい方をすれば、自分勝手が当たり前になる。協調性の牽牛星は自分のエリア内限定という狭い範囲で燃焼する。
『自分を含めて身近なものを守ろうとする姿勢が強まる。目の前のことを素直に信じ込めるので、あまり複雑な思考にはならない。日常性を自分が都合のいいように解釈して身につける作用になる。自分なりの環境肯定ロジックが生み出される』
これが司禄星+牽牛星の二連変化の意味。
自分の現実を都合の良いように解釈して行くというのは、一歩間違えれば自分勝手になるが、雑念が入り込む余地がないので、自分が信じる現実から才能が生まれたり、新たな現実を生み出すような力にもなる。
それを才能にする一つの働きとして、「霊感」が語られている。
『この生まれの人は感情の起伏が激しいため、周りからは ”気分屋さん" と思われがちです。しかし不思議な霊感の持ち主でもあります』
この霊感作用は、暗合系異常干支に分類される壬午の一つの特徴にもなる。
霊感というと予知能力や未来が見える力のように思われがちだが、赤い字の番号の異常干支はだいたい天報星と天極星という二つのエネルギーに分類される。
星はすべて主観星。
これは自然に(無意識に)それ(霊感とよばれるもの)が自分の当たり前の世界になることを意味している。
司禄星、牽牛星、石門星、調舒星、玉堂星という個人的日常を作る星に、当たり前のように霊感とよばれる能力が加わって行くように作られている。
それゆえ(日常的無意識ゆえ)、多くの場合、霊感と呼ばれるような特別な能力だとは自覚することなく、自分の中で当たり前の日常を作っていることになる。
比喩的な意味で、通常干支が多い組織や集団に属していると、自分の中の当たり前が時に異質な言動として周囲に映ったり、自分でもノーマルな組織に馴染めなかったり、という現象が起こることは考えられる。
ここでいう霊感とは何か、という疑問は当然出てくる。
前回の天極星の説明で死体の現実を生きる天極星は魂が死体をリードしているという仮説をたててみた。霊感と呼ばれるものの正体はこれだろうと思う。
それが石門星や牽牛星という当たり前の日常を作る星を動かしているとすると、霊感は、別に特殊な能力ではなく、非現実エネルギーに含まれていると考える方がいいように思える。
算命学スタンダードは調和のとれた当たり前の社会人にある。
古代と今と中身は全く変わっても社会空間は歴然とあって、その中で平穏に、問題を起こさずに、幸福に生きられることが算命の願いであるかのように思える。
それゆえに、異常干支、普通干支という分類が生まれる。
そうした前提を捨てることができれば、オリンピック選手と同じ能力として、異常干支も当たり前の市民権を得ることができるのではないだろうか。
オリンピックの感動には、特殊能力への称賛や驚嘆だけではなく、同じ人間があそこまでできるという暗黙の共感が含まれている。
十三種類の異常干支をみると、戌(土性)以外はすべて主観星からなっている。
主観星とは日干と陰陽和合する関係で生まれる星のことで、自分の一部として自然に使うことができる。
これは特殊な能力を意識することなく日常的に使えることを意味し、ただそれが外から見ると異常に見えるということであって、本来の意図はそれは異常ではなく当たり前の優れた能力、優れているという自覚さえもない一つの能力と考えるべきだろう。
その見地からすると、戌の本元の客観星は主観の中に入り込んで特殊な能力になっている可能性がある。
甲戌の特殊な引力、丙戌の独自の現実認識能力、戊戌の才能と呼べる強い自我。
そう考えると、異常干支の異常は星から来るものではなく、明らかにエネルギーから生まれていることになる。
そのエネルギーのあり様を日常的に具現して行く。それが特殊な能力になる。
そうした見地からエネルギーを観て行くのがいいように思う。
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