庚・・・庚は「更」。『万物粛然として改更するなり』と説かれている。更は「かわる」意。粛然(しゅくぜん)とは静かで秩序のある様子。

『姿形がその成長に合わせて変わる様子を表している。次の新しい姿へと変化することで、新しいものに生まれ変わることを示している』

庚という干を持つ宿命には、何かを変化させて新しくする役割があるとする。

午・・・午は「忤(ご)」と書いて、「さからう」と読む。

『枝葉が互いに擦れ合って入り混じり、かみ合いながら盛んに伸びるようになる』

陽気と陰気の葛藤であり、時でいえば、午前と午後の境目、正午の時間と同じ。

大局的には陽が頂点を過ぎたところで、「忤」は両極端を備えて角を曲がるような難しい役割を担っている。「忤」の葛藤は陰転の方向を見出すためのものであって、繁栄のものではない。葛藤しながら方向は陰に向かって行く。

庚も午も、勢いのある頂点からの変化点の意味になり、庚は静かだが、午はぶつかりあうような形になり、精神と現実の違いはみられる。


辛・・・『万物の辛生を辛と云う、辛は陰の始成なり』と説かれている。辛生は新生の意。『万物が皆縮んであらたまり、秀でた実が新たにできる』

庚の改革変化の理念を現実世界へと具現して形作る働きをする。陰の始成と言われるように、実質的な意味での陰転のスタート役。発展から納める方向へと切り替わる。

未・・・未は「昧(まい)」。暗くなるという意味で、『陰気が増し万物次第に衰え始める』

『陰転の中万物が和合する』それは負のイメージではなくて、収穫の秋に向かって、実をつけるための熟成期間のような意味を持つ。

「昧」は「味(び)」と同じとも説かれていて、陽気が隠れた姿は「果実」に象徴され、実が熟成する匂いと味が「昧」には含まれている。

日支未の人は、食通だったり、人や物事をまとめる役割がある。

辛の「万物は皆縮んで改まる」と未の「果実」と、イメージは一致する。


壬・・・壬は「任(にん)」。任とは「はらむ」こと。陰の気が陽の気をはらんでいる様子。壬は妊娠を意味する。壬は精神なので、種子のイメージを形作る。

「陰極まって内に微陽を生じ、万物の正機(始質)となり、生命力を任養する働き」として、次世代の萌芽の原形が含まれている。

申・・・申は「呻(しん)」と「伸(しん)」、二つの字が該当して、成熟と引っ張り伸ばすという意味を持つ。伸ばすのも成熟する方向へとなるので、意味は同じ。

未でまとまった実を成熟させて収穫へと導く流れを作る。

また『申(しん)は身(しん)であり、物はみな身体が完成する』と書かれている。また『申の月になると万物が皆一斉に精を内に貯め込んで、成熟完成する様子を表している』ともある。

妊娠(壬)を次世代の種の精神とすれば、その現実(申)は成熟完成となって、同じ働きといえる。


癸・・・語源的には「揆(はかる)」から来ているといわれ、『癸の言たるは揆なり、万物揆度する、故に癸と言う、揆然として萌芽す』とある。揆度(きたく)は、全体的な過程や規模を推測する意味。

癸は計り一巡することで、回る、回転するという意味もある。種が萌芽するタイミングを推し量っている時。

酉・・・酉は「緧(しゅう)」の意。申が作った果実が盛期を終えて、熟し切って縮まる様子を表している。一説には『「老衰」を意味し、万物の老いが極まり、成熟する。仲秋になると万物がすべて委縮して成熟するのでその様子を示している』と説かれている。

 

出だしの10干と10支は序数的にも語源から見る働き(役割)でみても一致している。

世界が10干10支なら平穏な循環が続くことになるが、現実界は10支ではなく、12支から成り立っている。そこから天中殺や人間が穏やかには生きられない仕組みが生じている。

 

そのあたりの成り立ちを干支の世界から探ってみたいと思う。