これまで、甲戌と乙亥の日座天中殺の人の生き方を観てきた。

 

日座天中殺の定義は、空間(社会精神)がなく時間(現実)だけの日干。

日座が天中殺されているわけではなく、座を作る空間がないために、既存空間での座を作れないという意味(というように解釈した)。

 

ローマは一日にしてならないが、一日がなくては、ならない。

空間も同じように、日々微細な変化を重ねながら、いつの日か時代の変化につながるような姿に変わって行く。

空間は固定されてあるものではない。

その変化の重要な一翼を担っているのが、日座天中殺に代表される天中殺だと思われる。

 

空間とは観念的哲学的な概念ではない。

自分が生まれ育つ時代の、社会通念や、社会常識という枠組みの事と置き換えることができる。たびたび出てくる、「既存」とは、そのことをいう。

 

空間のない現実での人生は、現実だけを生きることになる。

空間のない現実とは、むき出しの現実。裸の現実。

 

日座天中殺が生きる、「生の現実」は、すでに既存の人が生きる現実とは違った見え方をしていると想像される。独自の現実認識を持つ。

 

独自の現実を生きていくプロセスで、それが徐々に、日座天中殺としての空間作りへと向かって行く。自分が得た現実からの体験を元に、与えられた才能が開花するようになる。

 

そのプロセスでは、仕組まれたような出会いがあり、時には悲しい出来事があり、それらは、日座天中殺がこの世界で生きるための、必要な経験として蓄積される。

 

そして、自分の能力、または、作り上げた組織(世界)に周囲を巻き込みながら、自分が自分らしく生きられる現実を作り上げて行く。

それが新しい空間で現実を作るという日座天中殺の生き方の一つの完成となる。

 

もう一つ、生の現実、生の人間、という日座的な認識力は、現代が忘れている、失われつつある「人間」を浮き彫りにする。

 

モデルになるのは、自然の中の人間であったり、子供であったり、地域に密着した始原的な生活形態であったり、さまざま。

 

日座天中殺が想起する人間の在り方は、次世代の社会生活や家族形態、人間の在り方として、一つの問題を提起しているように思える。そして、それこそが日座天中殺という特殊性をもって生まれた宿命の役割になる。

 

例えば、結婚がダメといわれる日座天中殺者で、うまくやっている人たちの家族や家庭の作り方に、次世代の家族の在り方が提言されていると考えることができる。

 

はるか未来の話ではなく、20年、30年先、今の社会や家族形態が維持されているとは誰も断言はできないだろう。

 

海外で暮らす人が増えるかもしれない。逆に、海外から日本へ移住する人が増えて、日本も国際化するかもしれない。家族という枠組みが薄くなって、コミュニティーのような形態をもった家族が出現するかもしれない。

ペットを飼うというスタイルではなく、動物と人間が対等に共存する家庭が生まれるかもしれない。

そうした可能性の先鞭をつけるのが、日座天中殺だろう。

 

ただ、今回例証してきた人たちは、名を成した人たちで、これがそのまま一般社会を生きる日座天中殺者に適応できるとはいいきれない。

 

多くは、既存社会の枠組みを借り、その中でささやかながらも自分らしさを生きることを模索しているようにも思える。

あるいは、完全に既存枠の中に入って、自分の満足を半分諦めるような生活を選択する人もいるはずだ。

 

自然とはそういうものだと思う。人間もまた自然の一部。

自然は試行錯誤を繰り返し、犠牲もまた自然の摂理となって、10にひとつでも成し遂げる宿命があればそれでいいのだろうと思う。

 

だとするなら、10の一つになりたいと思うべきだろう。

どうせ生きるのであれば、与えられた宿命を最大燃焼して、自然の一員としての役割を果たす生き方をしたいと思う。

 

そうした視点で自分を見つめ直す時、算命学の示す宿命図は、大いなる地図になってくれる。その地図を眺めながら、新たな人生の可能性を開くことができれば、現実はまったく違った様相で、眼前して来るに違いない。

 

これまで日座天中殺には偏見もあったが、今回多くの日座天中殺者の生き方に触れてみて、宿命の持つ純粋さと、人間の新たな側面を垣間見ることができたように思う。自分たちの持っている社会道徳や常識が危うい物であり、なんらの正義でもないことを痛感することができた。

 

日座天中殺は危うくもあるが、とても魅力的な宿命に思えてきた。