今週の「Have Dreams」241回放送。
今回も、ディジュリドゥアーティストのGOMAさんがゲスト。(^^♪

先週はディジュリデゥアーティストとしての登場でしたが、今週は画家としてのGOMAさんにスポットを当てる。

GOMAさんが絵を描き出したのは、2009年の交通事故がきっかけだったらしい。
何と、退院後の翌日から絵を描かれたのだとか。

自分の中に形として表したいという欲求が募ってきていたのかな?

そんなGOMAさんの欲求に、偶然が応えた。
たまたま娘の机の上に絵の具があったのだとか。

それを、手にとって夢中で絵を描き出したという。
でも、その時の記憶が全く無いといういうのもGOMAさんが受けた後遺症のひどさを物語っていますね。(>_<)

その当時、5分前とか10分前とかの記憶さえ無かったというのだから・・。
5分ごとに記憶がクリアされていく人生とはどんな物なんだろう?

GOMAさんは、話しぶりから、事故前の記憶まで奪われてしまった訳では無いようですが、それでも新たな記憶が保てないというのは、自分の時間が事故の時点で止まったようなもの。(>_<)

May J.さんも、その点が気になったようですね。

それに対するGOMAさんの返答には驚きましたね。
記憶が無くても、生きていくことには関係無いと・・。

記憶が無くても、食べたり、寝たりという人間の基本的行動には関係がないというのは確かにそうですが、よくよく考えると、普通の人がこういう状態になったら当然抱くだろう不安の感情、その記憶も失われていたからかも知れませんね。

恐怖や不安の感情も、それが保持されなければ、感じないのと同じ?

私の分析が正しいかどうかは別として、GOMAさんの場合、記憶を失う前の資料も沢山残っていたことも、それほど問題にならなかった理由らしい。(^^♪

考えてみれば、保持期間が長いか短いかの違いは有っても、誰もが、常に多くの記憶をいつの間にか失っている。

昨日食べた物が何かは覚えていても、余程特別な食事で無い限り、1週間も経てば、それを思い出すのは困難だ。

そんな時に役立つのは、やはり記録。

記録によって、一旦失いかけた記憶が戻ってくる。
或いは、記録によって、擬似的にもう一度記憶が新たに書きこまれるのかもしれない。

自分が、書いているこのブログも、May J.さんのライブや、それに関すること、そしてその時に抱いた自分の感情を残す記録の役割を果たしている。

言わば、自分の記憶の断片。記憶のバックアップと言う訳だ。
記録するのは、大事なことだと、GOMAさんの話を聴いて改めて思いましたよ。(^_-)-☆

GOMAさんの話に戻ると、記憶は失っても、「FUJIロック」の映像を観たときに、もう一回やりたいと思ったらしい。循環呼吸法も直ぐ出来たとか。

記憶は失われても、体は覚えているということなんですね。(^^♪

ただ、そうは言っても、やはり大変なこともあったらしい。
記憶が短期間で失われるGOMAさんにとって、曲を覚えるのは難しいことだった。

確かにそうですね。覚える端から、記憶が失われていくのだから。

まるで、穴のあいたザルに水を入れていくようなそんな作業が、どれほど大変立ったか、想像に難くない。

でも、GOMAさんはそんな中、努力によって、ザルの穴を少しずつ埋めていった。

「今は出来る。人より時間は掛かるけど」とGOMAさん。

人間の可能性を感じる部分でしたね。
こういう状況に陥っても、脳の損傷を受けていない部分が、代わりを果たしていく。

頑張っている人を応援しているMay J.さんが参加するイベントには、「障がい者」の方を対象にしたイベントも多々有るので、そういう方達の姿も、結構目にするようになった自分。

手が失われてしまっても、その代わりを足が見事に果たしている。
足が失われてしまっていても、車椅子を巧みに操り、素晴らしいボールを返球しているテニスプレーヤーもいる。

ファッションショーもありましたね。(^^♪

その活き活きとした姿には、困難を乗り越えた者の自信のようなものを感じましたよ。
「美しい」というのは、こういう行動の中にこそ有るのでは無いか?
そう、考えさせられましたね。(^^♪

GOMAさんも、努力により今は、曲を演奏することも出来るし、事故前には、全く描いてなかった絵も描けるようになってもいる。(^^♪

勿論GOMAさんが言っていったように「前とは同じには成らない」のも事実。

だが、ふと思う。
「前と同じになる必要があるのか?」と。

前がよほど素晴らしかったというのなら別だが、人間は生きていく中でどんどん変化する。
だからこそ、進化も出来る。

GOMAさんは、事故により、記憶を失った。
だが、その時に観た光景により、事故前には描けなかった、点描画が描けるようになった。

点描画を描いたのは、「アボリジニが描いているのを観たのかも知れない」とGOMAさんが言ったように、それがきっかけだったのかも知れない。

しかし、もしGOMAさんが事故に遭わなかったとしたら、アボリジの点描画を見たとしても、それを描こうとは思わなかったのでは無いか。

GOMAさん曰く、自分の絵は、「抽象画」だと言われるが、実際に見た景色だから「具象」とのこと。

だとすれば、その景色を見ることは、点描画家のGOMAさんにとって、必要だったということになる。

事故を必然のように言うのは、語弊があるかこも知れないが、そこに天の啓示のようなものを感じる。

人は生きている限り、GOMAさんほどでは無くても、何かしらの人生の転機となる出来事に出遭う。

その時に、帰らぬものを求めていても、人生から大切なものが失われていくばかりだ。

それより、自分が変化することで、新たな自分を作り上げていく・・その事の中に活路は見いだせるのだと、GOMAさんの話を聴いてそう素直に思った。(^^♪

「出遭い」でさえ、「出逢い」に変える。
そういう意志と信念を、自分も持ちたいと思いましたよ。May J.さん。(^_-)-☆❤️❤️