新選組の洛中最後の屯所の場所のこと | 雪の上に照れる月夜に梅の花

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雪月花の時 最も君を想う…土方歳三、新選組、薄桜鬼大好き

 
時々講演会などに参加させていただいている中村武生先生が、この7月に「新選組最後の洛中屋敷、所謂「不動堂村」屯所の位置考」という記事をお書きになりました。
拡散ご希望ということで全文画像をUPされましたので、ブログにUPさせていただきます。
 
中村先生は「池田屋事件の研究」という本の著者です。

現在は絶版のようで中古しかないようです。

新資料等の考察を加えた改訂版を出したいとおっしゃっていたと記憶しております。

改訂版を今か今かと私は楽しみに待っている次第です。

 

さて、記事はこちらです。

 

 
 
 
 
 
 
新選組の京での最後の屯所があったと言われている不動堂村。
その根拠となったのが西村兼文の「新選組始末記」。
西村兼文は西本願寺の寺侍。彼の「新選組始末記」(※子母沢寛の「新選組始末記」とは別もの)は、新選組が京にいた同じときを生きた西村兼文が明治の時代になって書いたもので、新選組を比較的悪しざまに書いていることで有名なもの。
だけど、中村先生によると、幕末のあの時期、そもそも「不動堂村」という呼び名は江戸時代初期のものであって幕末のあの当時は「不動堂町」はあっても「不動堂村」はなかった。
 
西本願寺の目と鼻の先の当該地、西村兼文がそれを知らなかったはずがない。
意図的に間違ったことを書き残したのか?
中村先生は歴史家でいらっしゃるので、私みたいに根拠のない話を垂れ流したりはなさいません。
私の妄想です。
 
でも、妄想しかない私にも、不動堂村の屯所の場所にすごく疑問を持っていました。
中村先生の地図を拡大します。
 

 
Eの位置は、不動堂村の名前の由来の不動堂のすぐそばです。
ここに「新選組の屯所跡」という碑があります。
新選組の洛中での最後の屯所が本当に不動堂村(町)なら、全く違和感のない場所です。
だけど、Cにも「新選組の屯所跡」という碑がある。
これは、素人の私が見ても絶対おかしいと思った。
堀川通という大通りを挟んで両方に屯所があるわけない。
でも「不動堂」はEのほう。
でも……。
 
 
赤丸が油小路の変の場所です。
青丸のあたりに近藤勇の愛妾の家があり、油小路の変の当夜、伊東甲子太郎を招いた場所。
Eに屯所があったとしたらなんだか不自然な気がして……。
屯所に近すぎる。
そんな場所で暗殺したりするかなと。
 
Hが今回ここではないかと特定された西九条屯所です。
油小路の変から考えたら位置的にすごく自然だなあと私は思いました。
 
 
不動堂村屯所ではなく、西九条屯所。
 
今まで書いた二次創作のお譚は不動堂村屯所と書いていました。
今後は西九条と書こうと思います。
 
私は歴史はからきしダメです。
だけど推しに関して新しい史実がわかったなら、それを本当に本当にすごく微力だけど生かしたいので。
 
西九条の屯所が跡形もなくなってしまったのは何故なんだろう?
 
会津公も新選組もすべては京や帝を、そして日本を守ろうとしての行動だと思うのだけど、それが庶民感情の中に残されていないのは何故なんだろう。
どうして京の人たちが会津や新選組を嫌ったという感情だけが今も根強く伝わっているのだろう?
 
新選組の存在って、政治的に薩長にとっては目障りだったとは思うけど、
どうして京の庶民にとって目障りだったんだろう?どうしてそんなに嫌いだったんたろう?
 
西村兼文の新選組に対する嫌悪といい……。
 
 
わかんないなあ、いろいろと。本当に。
 
 
 
だけど、中村先生がこの記事を拡散してほしいとおっしゃったお気持ちには、やっぱり幕末の歴史研究家として新選組に関しての間違った情報がSNSで拡散され続けていることに危機感を覚えていらっしゃるからだと思うのです。
 
 
新選組の洛中での最後の屯所は「不動堂村」ではなく「西九条」
 
「西九条」です!