10年前を覗いてみると、 | 何処にも売っていない、藍染め作品集。

 

こんな感じで、トンガって、粋がって、何かに載った事を勲章として生きていた。あまのじゃくとして。人のいう事に従わないひねくれ者。漢字変換すると、天の邪鬼。仏の像でよく仁王様に踏みつけられているのは、この小さな鬼の事らしい。毘沙門天の腹にいるのもそうらしい。そうしていくと、10年でだいぶ丸くなったな。何処かで誰かに認められると、人は丸くなって、こうべを垂れ始める。か。

 

 

それでも、物作りやクリエイティブの原点は、反骨精神がどこかに無いとつまらない。人の言う通りに何かを作って、何かをするなら、今はAIの方が優れている。何も反抗しない。言われた情報を正確に提示する。僕はそう思わない。君ならどうする?そんなAIになってきたら、面白くなってくるかもしれないけど。

 

伝統柄や中型に惹かれて、今までやって来て、色んなリメイクをして、自分の型紙も作って染めて来て、最後まで愛着が残る形は、何処かに何かのメッセージが残っている物なのかと、何となくの答えが出て来た。いつまでもカッコいい物と言っていたけど、そのカッコいい物は、年齢と共に少しづつ感じ方が変わってくる。デザインの力が大きいのかな。カッコイイという感覚は。素材感やレイアウト力も左右する。

 

それとは別に、機能性や耐久性で、その物が使われなくなっていく。色褪せちゃったなとか、壊れちゃったなとか。それでも捨てる事が出来ない物。こうすれば、まだ使える、ここにあれを付けたらまだ面白い。縫ってみるか。とか。ここからが第二の物語り。その人の個性が育つ時。繋げるならば、BOROの始まり。

 

とことんまで使った先にある心の豊かさを、僕たちも味わっていこうじゃないか。もうそんなに多くの衣服は入らない。そんな気がする10年か。また、次のカッコ良さと面白さを見つけていかないと、人生はつまらない。ず〜と、心は遊んで生きていたい。

 

BLUE HANDS