色んな人の意思決定の様子を見ていて「あ~これは思考とエゴの暴走だな」って思う時があるんです。
でも、しっかり魂の声を聞いて、天からの導きがある方へ向かう人もいる。
その違いが何なのか明確な答えは出せないけれど、記事を書きながら考えたことを残しておきます。
私はエゴと思考は分けて捉えるようにしています。
エゴは素直な欲求。
食欲、睡眠欲、承認欲求などもココ。
思考は感覚を伴わないもので、調子よく働いていれば役に立ち、強くなりすぎると感情や身体の感覚(エゴ)を抑圧する。
自分を見つめたりトラウマを認識するのを思考を使ってやろうとする人ってたまにいますが、それだとあんまり癒えはしないんじゃないかなって思っています。
エゴと魂の区別とかも、思考でいくらやってもそれは新しい抑圧にしかならないんじゃないかな。
思考がひたすら冷徹で、エゴと感情がそれに押しつぶされたことによってストレスを溜め、そんな自分をまた思考が冷たく突き放して・・・っていう負のループにハマっている現代人って多いかもしれないなぁと思いました。
よくありがちなのが「穏やかな自分でいるぞ!」って決意したり、怒らない目標を立てたりすること。
でもその状態がいちばん力入っているし穏やかさからは遠いんですよね。
しかも人間の意志の力ってそんなに強くもないのですぐ破っちゃったりするじゃないですか。
失敗したっていう感覚ばかり増えると、どんどん自己評価も下がり、変にプライド(エゴ)ばかり高くなっちゃったりしてね。
そこでまた思考が断罪しに来て傷ついちゃったり。
こうしてエゴと思考の綱引きが延々と繰り広げられるわけです。
誰も悪くないのに、事態がどんどん悪くなっているように感じることでしょう
条件付けで自分を縛りたくなったらそれは思考が出しゃばっているのだと思います。
で、我慢できなくなったエゴがまた欲求不満で癇癪起こしてしまう。
強いエゴの爆発を魂だと思っている人もいるかも?
(エゴと魂はまた別物です)
ルールも何もなくただ愛するだけ・・・思考の世界からすると愛は得体の知れない怖いものなのかもしれません。それこそ玉ねぎをむくように、いくら分析しても芯も核も何もないものだから。
エゴとしては魂の方へ行くのは、これもまた怖いかもしれません。欲そのものが滅せられるように思ってしまうかも。自分の存在がかかっている(と思っている)ので全力で抵抗するでしょう。「死にたくない!」みたいな感じ。
思考に寄ってもエゴに寄っても魂の世界って絶対に行きたくない嫌なところなのかもしれません。
エゴと思考の板挟みで苦しくなっている時はたぶんどっちも《チガウ》のです。
魂はその下の奥深くで静かにしている。。
その場所まで降りて行っても思考もエゴも消えないのです。
むしろ、方向性が定まって丁度いい在り方が見えて来る。
これまでむやみに支配をかけていた思考も、わがまま放題だったエゴも、魂に仕えるような働き方に変わっていく。
魂の感覚で生きることに慣れてくると、自分で自分に課していた決まりごとが減っていることにある日気が付くでしょう。
周りが何も変わっていないのに、心が軽くなっている。以前よりほんの少しだけ楽に息ができている自分がそこにいるのです。
yucca.
こちらはKOKIAさんの楽曲。ハッピーな毎日をつくる作業って、おいしいゴハンを作る事とよく似ている気がするんです。