うっかりして、ちょうど僕が普通に呼吸をしたその時、ベラが豊かな髪を払い上げた。特に濃厚なベラの香りが僕の咽喉の奥にヒットした。
初日のようだった―――ボールが当たったみたいな衝撃。燃えるような乾いた痛みが僕をふらふらさせる。あの時と同じように座席に体を固定させるため、しっかりと机を掴んだ。
今回はそれほど抑えなくても大丈夫だった。少なくとも何も壊さなかった。モンスターが僕の中でうなっていたが、痛みで喜ぶどころではなかった。奴はしっかりと繋がれている。ちょっとの間に起こった出来事だった。
完全に呼吸をするのを止めて、できるだけ彼女から離れようと体を傾けた。
駄目だ。彼女の魅力に気付いたことで余裕が保てない。より興味を抱き、彼女を殺す可能性も高くなってしまった。すでに今日は、些細だけど二つのミスを犯した。さすがに三度目はないだろう?しかも今度は小さなミスではなく。
ようやく終業のベルが鳴り、僕はすばやく教室を出た―――おそらく、この時間内で作った中途半端な礼儀正しい印象は駄目にしただろう。外の清浄で湿った空気を吸って、また呼吸を荒くした。僕は急いでベラとの距離を可能な限り間隔をあけた。
スペイン語クラスの入り口の前で、エメットが僕を待っていた。瞬間に、彼は僕の凶暴な表情を読み取った。
―――どうしたんだ?
エメットは慎重に聞いてきた。
「誰も死んでないよ」
僕はささやいた。
―――あれが何なのか推測した。最後に僕が読み取ったアリスが予知したもの、僕が考えるに…
教室内に入る時に、ちょうど2、3分前のエメットの記憶が流れ込んできた。教室のドアを開けて、そこから覗き見えたもの。アリスがぼんやりとした顔で実験棟の方へと足取りよく歩いる。この記憶から察するに、アリスと一緒に行き、そこに留まるつもりだったようだ。エメットの手助けがいるのなら、アリスは言うだろう…
僕はイスにドスンと座り、嫌気でうんざりして目を閉じた。
「目を閉じた理由ははっきりしない。僕は殺そうとは思わなかった…マズイ事が起きたとは思えない」
僕はつぶやいた。
―――そうじゃない
エメットは僕を安心させた。
―――本当に誰も死ななかったんだな?
「そうだ」
僕は歯を食いしばって答えた。
「今回も」
―――それって、もう安心できそうじゃないか?
「きっとね」
―――別に、お前が彼女を殺しても良かったけど
エメットは肩をすくめた。
―――お前が失敗するのは初めてじゃないだろう。誰もお前を厳しく責めやしない。いい匂いのする人間だっているさ。お前は長い間我慢できる奴だって、俺は強く思ってる。
「別に困ってないから、エメット」
ベラを殺すことを避けられないという僕の考えをエメットが認めてくれたことで、僕は抵抗することができた。そんなにいい匂いがしたとしても、ベラに責任はないだろう?
―――それが俺に怒ったときこ事を、覚えている
半世紀間の彼の過去を、僕に記憶をたどらせた。
夕暮れ時に、田舎の小道で中年の女性が林檎の木々の間に通された紐から落ちたシートを取っていた。林檎の香りにひどく酔ってしまった―――濃すぎるうえ、うんざりするほど果物がそこら中にある。大量の虫たちが香りの漏れ出す肌に傷あとをつけた。刈り取られたばかりの干草は香りを引き立てる。ロザリーの使いで、エメットは小道を登り女性に気付かなかった。頭上の空は紫色、西にある木々の向こうはオレンジ色に染められていた。エメットは夕暮れと気付くこともなく、あてもなく荷車を運び続けるのだろう。突然吹いた夜のそよ風が白いシートを帆のように吹き上げ、女性の香りがエメットの顔をなでた。
「ああ」
僕は静かにうめくような声をもらした。まるで僕自身の記憶のように咽喉が渇いた。
―――俺は知っている。30秒後には終わっていた。抵抗なんて考えもしなかった。
彼の記憶があまりにも明示的すぎて、僕は立つことができなかった。
僕はイスから飛び上がり、鋼までよく切れる歯を固く食いしばった。
「具合が悪いのですか、エドワード?」
僕が突然立ち上がったことで、スペイン語学のゴフ先生は驚いて声をかけてきた。彼女の心を読み、うつろに遠くを見つめている自分の姿が見えた。
「エメットがついていてくれます」
つぶやきながら、ドアまで急いで向かった。
「エメット――――いいでしょう。あなたの弟を介護してくれますか?」
先生は教室の外へ出ようとする僕を助けるよう身振りをしながら言った。
「もちろん」
そう答えるエメットの声が聞こえた。それから彼は僕の右隣に立った。
エメッとは僕の肩に手をまわして体を抱え上げるようにし、建物から離れた場所に連れ出した。
僕は不必要なほど強引に手を払った。腕の骨がぶつかり、人間の手だったら骨が砕けていただろう。
「悪い、エドワード」
「分かってる」
僕はあえぐように深く呼吸しながら、肺と頭をきれいにしようとした。
「そんなにひどかったのか?」
記憶の中の血の味と香りを考えないようにしながらエメットは尋ねた。
「いっそう悪い、エメット。ひどいもんさ」
その瞬間、彼は黙った。
―――もしかして…
「いや、もし僕が一緒に一線を越えていたらの話だよ。教室に戻っていい、エメット。一人にさせてくれ」
エメットは何の言葉も考えず向きをかえ、急ぎ足で立ち去った。彼はスペイン語の先生に具合が悪いと伝えるだろう。もしくは精神的に落ち込んだ、またはヴァンパイアの制御が危険なほど困難になったとか。彼の許しは本当に問題だったのか?僕は戻らないかも。ここを離れるかもしれない。
僕は自分の車に戻り、学校が終わるまで待つことにした。
また身を隠すために。