2019/09/17.Tues.
ずっと我慢していた事が、ある瞬間に堰を切ってとめどなく溢れ出る事がある。
それは、その対象が私のすぐ目の前で『これこれこうだから、自分の言動は正しい』と、誇らしげに断言してみせた時だった。
言ってはいけない言葉と分かりつつも溜まりに溜まった不満に耐えて耐えて歯を食いしばって、それでも一言、本人が居ない場所で、
『死んでしまえばいい……消えてしまえばいい』
と、私の口から出た。
たまたま出た言葉でも、冗談の類いでもなく、紛れもない本心である。故に私は自分自身が出したこの言葉──呪詛のような忌まわしいモノを吐き出したからといって何の後悔も無い。
『そんな事は言っちゃ駄目』
テーブルの向かい側から母親がすかさず口を挟んだ。
まあ、親として当然だろう。私が逆の立場であれば、自分の子に同じ言葉を言う。
姪っ子にも暴力的な言動には、それが何を誰にどうもたらすか、散々説いてきたのだから。
『……いや、分かってるよ。でも、積もりに積もったモノが──』
『言っちゃ駄目。思ってても言っちゃ駄目』
『……(ん?何か物足りない)。ああ、だから本人には絶対言えないでしょ』
『それでも言っちゃ駄目』
『……』
えーと?
有無を言わさず、という事なのだろうが、明らかに反論してくる相手にそれで押し通せる道理は無い。
要領を得ない事が逆にイライラを募らせる。
するとこんな話を始めた。
『ひいおばあちゃんがね、いつも言ってたよ。幼い姉妹で喧嘩してると『お前なんか嫌いだ!』『あんたなんか死んじゃえ!』って口に出る。そんな時は必ずひいおばあちゃんに怒鳴られてとっても怒られた』
まあ、そりゃそうだろと、かなり冷めた目と心の私は黙って聴いていた。
『ひいおばあちゃんの旦那さん──ひいおじいちゃんは戦争で何度も何度も赤紙をもらって戦地に行ったから、そのひいおばあちゃんの言葉はいつも逆らえない説得力があったよ』
──話は終わった。
『……』
更に冷める。
物凄くゆっくりと話しているのだから、感情と情景を心に描いて噛み締めるように語っているのだろう。
ただ……ツッコミたくなる。
●そんなに響く言葉を貰ってたのに『毎回』同じ事繰り返してたのかよ
●大事な事抜かしてるよね
●伝えなきゃいけない事を喋らず、完全に抜けてるって事は、全く染み込んでないじゃん
話し終えて何か思い出してるのか、下を向いて黙々と折り紙を折る母に(この現状もどーなの?俺の目を、せめて顔見て話せよ。それが教育の『普通』だろ)取り敢えず、一言言ってみる。
『で?』
『だからっ、言っちゃ駄目なんだって!』
『それは分かってるって言ってるでしょ!それで終わりかって聴いてんだよ!しっかりとした理由を伝えないと教えにならないだろ!』
『あの人(ひいおばあちゃん)の存在が言ってるでしょ!』
『……(は?)』
あまりに馬鹿馬鹿しいのでこの話は私が黙る事で終わった。
戦争を経験し、生きるか死ぬかでありながら、自分では何も選べないほどの凄まじい状況を生き抜いた『ひいおばあちゃん』の直接の言葉なら響くだろう。
だが、なのだ。
目の前の母親はそれを『聞いた事がある』だけで、実際に戦争を体験した事も死地を乗り越えて来た訳でも無い。
経験者は身近に居たが、『母』である本人からは何も重さは伝わっては来ない。言われた事をそのまま言っているだけの録音テープでしかない。
そこから学んだ『命は尊く、死んでは二度と戻っては来ない』という教訓すら出て来ない。
単に『ひいおばあちゃんが言ってたんだから分かれ!』としか言ってはいない。
そうなると私から言いたい事は一つだ。
『薄っぺらいな!』
まあ、いい歳の親子が熱弁するなど、恥ずかし過ぎる。
何故なら、私の溜まった愚痴の一言から始まっているだけなのだから。
この母親の愚痴は散々聴いてきた。
それも私が本当に幼い頃──小学校にあがるかその前か……そんな頃から。
もしも私が記憶そのままにあの頃に戻ったら間髪を容れずに言うだろう。
『知らねえよ!親がまだ年端もいかない子供に自分の苦労を語ってんじゃねえよ!『親』として恥を痴れ、恥を!そんなに嫌なら出てけよ!毎回口ばっかじゃねえか!』
そう、小さい頃から母親は父(と言いたくもないが)と、幾度となく喧嘩をし、たまに実家に帰っては翌日戻ってきた。
折角静かになったのに……
それが小学校低学年の心境であった事は未だに忘れられない。
ボロカスな愚痴は言うくせに、人の愚痴は聴きたくない──そう言われた事もある。
そんな事を考えているとどんどん黒い暗闇が深い濃さを増してくる。
そして話題は、私の離れ(プレハブの2階)の靴置き場の私の靴の中に電源の入ったケータイが入っていた話に。
もう10年前になるのだろうか。
深夜、トイレに行こうとして気付いた時には総毛立った。
しかしだ。私は冷静に動いた。無意識だったかもしれない。
先ず、透明なビニール袋に、そのケータイに触れないように中に入れ、袋の口を縛って室内の引き出しの中にしまった。
次に、忘れてはいけない行動に移る。
トイレに行った。
ここを怠っては酷い事になるからだろう。身体は自然と動いていた。
翌朝、母親に事の顛末を話し、私は赤いケータイの入ったビニール袋を持ったまま、何かを待った。
ソレは意外とすんなり現れた。
私の自室は敷地の角にある。その横は細いが道路であり、真向かいには家があるのだが、そこの3人兄弟(全員横がある。それもデカい。その時は裏に居るのが兄弟という事も知らなかった)の一番下──コイツが厄介な奴で、下らないが物凄い妄想癖を持っていた。
自分は誰かに追われている。警察は敵で常に命を狙われている。自分の部屋は盗聴されている……などなど。例をあげれば枚挙に遑がないとはこの事だ。
コイツは何度かウチに来ては、『お宅の倉庫の裏に自分の物が入ってしまったので見させて欲しい』と言い、さっさと倉庫の裏に走って行き、私が『何だ?』と向かう頃には帰ってきて、『ありませんでした。失礼しました』と自分の家に帰って行く。
おかしな話なのだ。
ウチは約3mのブロック塀で四方を覆っているので、裏だからといって、自分から自分の物を投げ入れるか、その自分の物がスーパーボールでも無い限り敷地内に入り込む事は有り得ない。
そんな時に起きたこの事案。黙ってはおけない。
怖過ぎるし、何より気持ち悪過ぎる。
誰がむさ苦しい変な男の部屋を盗聴したいのだ?
それを私がやっていると思われている事自体に吐き気と寒気がしていた。
午前10時頃だったか。
現れたのはその本人では無く、そいつの母親と兄だった。その兄は兄でやたら頬と唇がピンクなので、どー見てもそのガタイもあって近付きたくないタイプ。
私と母が外で応対した。家の中になど入れたくもない。
私は例のビニール袋を後ろ手にして見えないように隠して持っていた。
『あのう……』
向こうの向こう側っぽい兄貴が喋りだした。
『弟が、こちらに物を落としたと言うんで……』
……『落とした』。私の中では警察に連絡する内容を考え出した瞬間だった。
『へぇー、ソレはコレですか?私のあのプレハブの2階の踊り場の靴の中に入っていました。しかも電源入れっ放しで丁寧に(怒)』
眼前の2人によく見えるように突き出したが、勿論渡す気などさらさらない。貴重な証拠品だ。
『分かりますよね?あの踊り場は道路とL字に、完全に囲いがしてある。『落ちて』私の靴の中にすっぽり入るには、深夜に敷地内に不法侵入して、あの階段を上がり、靴を探せるように予め持ってきてるライトで足元を照らさねば無理なんですよ』
既に2人は黙って下を向いている。
コレが怒りを誘う。
自分達の過失で無いにせよ、謝罪の言葉というモノはしっかりと有るのだから。
『……それをどうか』
ビニール袋に触ろうとしたのか、伸ばした腕と反比例に私は──
『どうぞ』
『──はっ?!』
驚きのあまり、言葉を失った。
横にいた母がビニール袋を私から奪い取り、あっさりと2人に渡した。
頭が真っ白になって、謝りもせずに帰って行く2人の背中から目を離し、母親に、視線を向けると、
『世間体があるんだから。ご近所さんなんだし』
『……』
何も言えなかった。
『世間体』?『ご近所』?何を言ってる?
訳が分からなかったが、アレを失った以上、何も出来ない。
そして今、
『世間体がそんなに大事か?近所付き合いなんかあの家とは一切してないだろ!』
『後で何があるか分からないでしょうよっ。それでなくてもあのお兄ちゃんは変な事いっぱいして来てたんだから!あなた知らないでしょ?!』
何故か反発してくる母。
確かに今頃というのは分かるが…何か違う。
『変な事って何だよ!後で?何呑気な事言ってんの?!アレで済んだだけで、こっち(私)がホントに危なかったかもしれないのに!?』
『何にも無かったでしょ!それで良いじゃない!自分の身を守るのは当たり前でしょうよ!』
『自分?自分って何だよ!世間体から自分を守んのかよ!俺の気持ちはどうなるよ!』
コイツ、『色んな事』があったくせに家族にも警察にも秘密にして、何が『守る』だ。
訳の分からん事を主張して気が済んだのか(これもどうなのよ)、一息ついて落ち着いたらしく、
『あー……そうだね。あんたの気持ちを聴いてあげれば良かったね』
ふと既視感が……
『ハイハイ、すみませんでした』
(╬ ˙-˙ )
『何だそれ!』
『謝ったでしょ?! 何が不満なの!』
『は?謝った?あの時に気持ちの確認をしなかったのは俺も悪かったけど、今のは何だよ!『ハイハイすみませんでした』って!』
『だから謝ったでしょ』
『同じ立場だったらどうかって言ってんだよ!』
さすがにキレた。
『ハイハイすみませんでしたってテキトーに言われて、素直にこの人謝ってるって思えんのかよ!普通ならここで喧嘩になる事ぐらい簡単に分かんだろうがよ!少しは考えろよ!自分の事ばっかじゃねえか!』
『謝ったのに何が不服なの!』
マジか、このDQN。
『ハイハイじゃねえんだよ!『これはこうだったね、こうすれば良かったね』までは良いよ!その後『ごめんね』の一言なら謝ったと思えるだろうが!そんな事も分からずに『ハイハイすみませんでした』言われたら全部台無しだろうが!』
『……』
分かったのか分からないのか、何も口にしない母。
コイツあの時のアイツらと同じじゃねえかよ。
こんなんだから、何も説明出来ず、何も言わずに、ただ興味のあるものを触りたがった一歳ちょっとのCOTOMIの手のひらをバンバン叩きのめしてたのかと無駄な教訓を繰り返し知らされる。
止めなきゃいつまでも叩いていただろう。
今の教育に親の親世代はついていけないという、言葉を思い出した。
未熟過ぎる。
私が優れているとかが言いたいのではないし、教育はこうあるべきと主張したいのとも違う。
それぞれのやり方がある。考え方がある。
ただ、異常である事を異常と認識出来ない、異常が通常としか思えない人間の危うさが常に人間社会にはある。
そんだけ。