攻城日 : 2023年7月16日


↑神明神社 入口 ↑

水海城は、茨城県古河市にある城跡デス♪

↑広域マップ↑

城跡は、東武鉄道 日光線 南栗橋駅の北東およそ5kmにあり、現在は神社や宅地、小学校などになっています。
 
↑城域を南側から↑

水海城は、古河公方家の重臣として小田原北条氏に最後まで徹底抗戦した簗田氏の居城でした。


↑城域を北側から↑

と言っても、簗田氏が小田原北条氏と戦った舞台は水海城のあと本拠地とした関宿城でして...


↑城域内とされる水海小学校↑

利根川と江戸川に挟まれた交通の要所に位置し、北条 氏康をして "一国の価値が有る "と言わしめた関宿城は幕末まで使用され現在でも模擬天守が建てられるなどおシロ業界の中でも比較的メジャー路線ですが、こちらは "遺構無し ""地形的な雰囲気も無し ""城跡に関する表示物すら無し ""逆三冠王 "状態です ww



↑城域内の宅地↑

一応、ココ水海城も利根川沿いにあり、往時はその名のとおり河川や湖沼に囲まれた "水の城 "だったと思われ、それなりに要害性もあったのでしょうが、圃場整備によって現在ではその雰囲気すら全く残っていません。


↑おシロだったトコ (推定 )↑

おシロは、現在の神明神社から水海小学校の辺りにあったとされています。

ヨソさまのトコでは、神明神社辺りの微高地とか書かれてたりしますが、微高地かどうか分からない程度の "超 "微高地です ww


↑神明神社 本殿↑

また、水海城の南側およそ1kmの辺りには "水海古城 "があったとされており、両者の関係性もよくわかっていません。

↑神社の西側↑

元々簗田氏は下野国の土豪であり、この地へ移ってきたのちに更に関宿城へと移り、小田原北条氏に敗れたあと再びこの地に戻ってきています。

名称からすると、下野国から移ってきた際の居城が水海古城で、関宿城を追い出されて戻ってきた際の居城が水海城のようにも思えますが、一方で関宿城へと拠点を移したあと簗田氏は関宿簗田氏と水海簗田氏の2派に分かれたとも言われており、水海城と水海古城がいつ、どう使われていたかについては不明な点も多いです。


↑神社境内にある石碑 その①↑

神社の境内にはいくつか石碑があるのですが、いずれも消えかかっていて全て解読するのは困難な状態 ...

↑神社境内にある石碑 その②↑

その①は "宝歴 xx稔9月19 xx 下総国葛飾郡下川辺 xx "って書いてあると思われ、宝暦年間 (1751~1764年 )のモノのようです。

②は "香取神社 愛宕神社 "って書いてあるっぽく、この2つ以外のヤツはちょっと読めぬ...

まぁいずれにしろおシロとは関係の無い後世のモノのようです ショボーン

【オマケ①】
↑古城 遠景(北側から)↑

んで、ウワサ (? )の水海古城がコチラ ...

↑おシロの西側↑

水海城も何にも無いですが、こっちは更に何も無いです ww

↑おシロの東側↑

痕跡すら微塵も残っておらず、ある意味清々しいほどの消滅っぷりです ww

【オマケ②】
↑安禅寺 入口↑

水海城の北西およそ3kmにある安禅寺 (茨城県古河市磯部 )は簗田氏の菩提寺で、簗田氏一族の墓石と伝わる五輪塔が残されています♪


↑"安禅寺 由緒 "石碑↑


興味がある方は、セルフで拡大してお読みください ww

簗田 持助によって開基された...的なコトが書いてあります。

↑"簗田氏墓所 "解説板↑
 
拡大してセル (略

↑簗田氏一族の墓石とされる五輪塔↑

上の解説板の記述によると、この9基の五輪塔はバラバラになっていた五輪塔や宝篋印塔をまとめたモノで、元々の状態ではないそうな。

↑安禅寺 本堂↑

歴史とか
水海城の正確な築城年は不明ですが、永享年間(1429~1441年 )頃簗田氏によって築かれたと思われます。

平 惟茂を祖とする簗田氏は、近江国出身とも言われていますが、平安時代末期から関東での活動が確認出来、下野国簗田御厨を領していました。

室町時代に入り鎌倉府が設置されると、簗田氏はその奉公衆に組み込まれ、満助の代になると下総国下河辺庄 (中心地は古河 )へと移住しており、水海城はこの頃に築かれたと思われます。

満助は娘が関東公方 足利 持氏の室となるなど公方家において勢力を拡大し、1438年の永享の乱や1455年に始まった享徳の乱においても満助やその子 成助は一貫して公方側として戦い、公方家が拠点を古河へと移したのちも重臣として勢力を維持します。

成助は1457年に水運の要所である関宿に城を築いて本拠地とし、それ以降 簗田氏は長きに渡って斜陽の古河公方家を支え進出してくる小田原北条氏と戦いましたが、1574年の第三次関宿合戦で敗れ、関宿城を開城し水海城へと退去しました。

感想とか
中世城郭めぐりをしている中で地元の方と話すと "何にも無いよ "と言われるのはよくあるコトで、まさに "中世城郭めぐりあるある "なのですが、ココはホントに何にも無いです ww

戦国時代にはかなりの勢力があった簗田氏の居城なので、それなりの規模があったハズですが、コレっぽっちも痕跡がありません。

脳内補完するのも困難な状態なので訪問しても面白みはありませんが、関東戦国史において簗田氏が果たした役割は結構重要ですので、関宿城や古河城辺りとセットで巡ると良いでしょう♪

一応、御城印も販売されているようですが、それよりも跡地に標柱や解説板のひとつでも設置して欲しいトコです...

〔基本データ〕
読み方 : みずうみ じょう
住所 : 茨城県古河市水海
標高 (比高 ) : 12 (0 )m
築城者 (年 ) : 簗田 満助? (15世紀初頭頃? )
主な城主 : (水海 )簗田氏
駐車スペース : 神明神社入口にスペース有り
駐車スペースからの比高 : 無し
訪問する際の目標物 : 神明神社 / 水海小学校
残存遺構 : 無し
城跡に関する表示物 : 無し
史跡指定 : 無し
見学時間の目安 : 城域をグルっと回って15分

〔主観的評価 (最大 : ★★★★★ )〕
疲労度         : ★         (平城なので ... )
城跡整備     : ★         (特にされていません )
ヤブの多さ : ★☆     (ほぼ無し )
お城の規模 : ★★★ (あくまで推定 ... )
残存状況     : ★         (壊滅状態 )
遺構状態     : ★         (完全消滅 )


〔周辺マップ〕