攻城日:2019年8月12日

↑"史蹟 西城本丸跡"石碑↑

西城は、埼玉県熊谷市にある城跡デス♪

↑石碑の裏は字がビッシリ...↑

城跡は、JR高崎線 熊谷駅の北側およそ5kmにあり、現在は畑になっています。

↑城跡風景①↑

辺り一面が畑の中で、ポツンと石碑が立っています。

ただそれだけの城跡デスww

↑城跡風景②↑

石碑が立っている場所は若干微高地ですし、一見堀跡のように見えるトコもあるのですが、以前この地では発掘調査が行われたのち埋め戻され、その後農地としてガッツリ改変されたそうなので、ただの気のせいデスww

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西城は、天禄年間(970~973年)に左近衛少将 藤原 義孝によって築かれたとされていますが、城を築いたのは義孝の子の忠基であるとか、子孫の幡羅 太郎 道宗(あるいは道宗の子 助高とも)であるとする説もあり、特定するまでには至っていないようです。

1062年の前九年の役で武功を挙げた利仁流 藤原氏の実遠は、長井庄(現在の熊谷市妻沼・西城の辺り)を与えられ、西城に入って長井斎藤氏を名乗りました。

実遠の孫が、源 義朝(頼朝/義経のパパン)に従って活躍し、篠原の戦いでかつて命を助けた木曽 義仲に討たれるトコが平家物語などでも名シーンとして語り継がれている長井別当 斎藤 実盛です。

西城は立地的に、幡羅氏の末裔である成田氏と長井斎藤氏の領地の境目にあったようで、両氏によって奪い合いが繰り返されていましたが、最終的には成田氏の領有となり、忍城の支城として機能していたようです。

1476年の長尾 景春の乱の際、太田 道灌によって鉢形城を攻められた景春は、西城の支城である東城に立ち寄ったのちに秩父へと逃亡し、西城は道灌によって攻め落とされています。

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城跡は、遺構はおろか面影すら皆無ですが、歴史背景はしっかりしており、また県下でもかなり古い歴史を持っています。

ちなみに名称については、"西"城となっている場合と"西城"城となっている場合があり、どっちが正解なのか、よくわかりません。

"西城"という地名が先であれば"西城"城ですが、石碑の裏の記述では地名が後とされており、熊谷市の資料でも"西"城となっているので、ココも右へ習えしときますww

〔基本データ〕
読み方:にし じょう
住所:埼玉県熊谷市西城
標高:26m
駐車スペースからの比高:無し
築城者(築城年):藤原 義孝?(970~973年?)
主な城主:藤原氏/幡羅氏/成田氏/長井斎藤氏
駐車場:無し→石碑周辺に路駐
目標物:周囲は360℃畑で、石碑が目立つので近くまで行けばわかりますww
遺構:無し
城跡に関する表示物:石碑
史跡指定:無し
見学時間の目安:5分

〔主観的評価(最大★★★★★)〕
疲労度:★(無し)
ヤブ:★☆(ほとんど無いです)
遺構:★(無し)


〔周辺マップ〕