攻城日:2019年3月23日

城跡石碑

皿尾城は、忍城から直線距離で僅か約1.5km、忍川を挟んで北西側にあった城址デス。

なんでこーゆー設置の仕方をするのか...

現在は久伊豆神社と大雷神社の合殿の社殿が建っています。

久伊豆神社大雷神社合殿社殿

遺構はほぼ消滅していますが、辛うじて神社北側に土塁とおぼしきモノが残っています。

神社東側鳥居

皿尾城は、通説では1561年に上杉謙信によって築かれた、とされています。

1561年というと、数ある謙信の関東出兵の中でも小田原城を包囲し鶴岡八幡宮で関東管領就任式を行った年であり、その過程で1552年に北条方に落とされた羽生城を奪還もしています。

また、皿尾城の目と鼻の先にある忍城主であり、小田原城攻めでは謙信側に参陣した成田長泰が北条方に寝返ったのもこの年です。

神社北側土塁①

これらを時系列で並べると、羽生城奪還→小田原攻め→成田氏離反となるわけですが、皿尾城はいつ作られたのか、が謎になってきます。

羽生城奪還時点では成田氏は味方なわけで、わざわざ忍城の目の前に城を築く必要は無いですし、成田氏離反後であるならば目の前で築城されるのをむざむざ指を咥えて見ているわけもなく。

神社北側土塁②

忍城を包囲しながら皿尾城を築城、なんて芸当は秀吉ならともかく謙信にはあまりそういったイメージは...ww(あ、謙信の為政者としての能力は高く評価しています。あくまでも戦時の戦術に関してのイメージです。)

水堀跡?

ということでその成り立ちがよくわからない皿尾城、気になったのでGoogle先生に聞いてみたところ、なかなか興味深い情報を見つけたので紹介します。

神社北側

成田氏は、通説では熊谷市上之の成田氏館から忍城に移ったとされていますが、成田家の古文書や江戸時代中期の郷土史家である福島東雄が編纂した"武蔵志"には、行田(=忍城)の前は皿尾に居していたことが書かれているそうです。
(ちなみに"武蔵志"では、「皿尾の古城、成田氏数代これに居り、親泰の頃行田に築いて廃城す」となっているそうです)

堀跡っぽく見える神社西側①

すなわち、元々皿尾には城館があったわけで、成田氏離反時に現役だったかどうかは不明ですが、謙信が成田氏から奪ったもしくは廃城となっていたのを再建した、とすると辻褄は合う気がします。

堀跡っぽく見える神社西側②

まぁ実際のところどうだったのかは定かではありませんし、成田氏が忍城の支城として築いたとする説もあるようですが、個人的にはスッキリしたので満足デスww

〔基本データ〕
住所:埼玉県行田市皿尾
標高:19m
築城者:成田氏?/上杉謙信?
主な城主:成田氏?/木戸忠朝
駐車場:神社周辺にスペース有り
目標物:久伊豆神社/大雷神社
遺構:土塁/堀跡?
表示物:石碑
史跡指定:無し
見学時間の目安:10分くらい

〔主観的評価(最大★★★★★)〕
疲労度:★(無し)
ヤブ:★(無し)
遺構:★☆(何にも無いよりはマシ、な程度)

〔場所〕