明治維新に関して、学者によって『革命』と定義しているが、中途上半端な革命としている。これに関して、『士農工商』といった階級史観が問題となり、羽仁五郎は、ミゼラブルと言った単語を多用していたな。実際は、わが国には市民階級だっておらず、極端な話で第二次大戦終了後まで待たねば形成されず、武士層が、市民と認知されるまで紆余曲折があった。

 それにはかつて特権階層であった武士層『市民層』に昇華しなければならなくなった。それでも『自由民権』を隔てて西洋における『自由』という概念が武士層であった知識階級から育ててくる。

 明治維新は、経済体制だけでなく、基本的人権、思想の自由が確立される。西洋自由が確立されるが、小説家や漫画家の軽い認識故に、神仏習合も誤解されてしまう。
 結果的に、武士道すら無理解になってしまう。娯楽で武士道を理解しようとするから、誤解されてしまい、武士道がごかいされてしまう。民主主義の時代に創作された武士道を誤解したまま曲解されて『真の武士道』を目指した集団として『誠の武士道』として新選組を誤解してしまう。

 結果的に松浦玲氏の指摘を無視して『新選組』こそ真の武士道と誤解してしまう。

 娯楽として楽しむのであれば、別段知ったことではない。
それを『史料集』と称して出すから大学の教授の唐介入をされてしまう。これが原因で新選組が誤解されるのは不幸でしかない。松浦氏だけの介入ならば松浦氏だけに小馬鹿にされるだけで終わったが、よりによって東大の『ゴジラ』こと宮地正人氏が書籍を出したから大騒ぎになり、新選組研究家ならぬ珍選組研究家に落ちてしまう。
 現在では再調査されてしまい、彼らの研究は無意味で終わる。本来は明治2年で新選組は終了したわけではない。彼らは司馬遼太郎の歴史観以上の発見はなかった。



 松浦玲氏は新選組の終焉を『自由民権運動』とした。これにより、近藤勇の目指したのは『尊皇攘夷』として政治結社で有り、新選組はあくまで創作として楽しむ題材であって、本来は歴史の中の新選組では、彼らも攘夷志士であり、革命の兵士であった。レ・ミゼラブルで市民の歌を唱う一端であり、最終的には、斉藤一の様に一介の明治の市民で終わる。
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 武士道とは無縁で有り、会津士魂は市民になりきれず、市民階層を負け犬と表現してしまう。早乙女貢市民階層共産主義と断定してしまい、これが会津を否定してしまう。
結果的に令和の御世でも、今は無きb武士階層を憧れたところで、会津戦争で大半の領民は関わりを拒否してしまう。これが歴史の現実である。

 だからこそ、会津戦争にも明治維新にも『コゼット』は存在しないのである。
 『ジャン・バルジャン』は、存在したが。長州の諸隊で有り、薩摩は身分が五月蠅く存在しなかった。本来の市民階級は武士層であった面々が、西洋市民思想に触れて後に、大久保利通が目指した明治維新30年計画は、GHQによってもたされたのは皮肉である。明治維新によって武士階層は崩壊した、只、早乙女貢のような階級主義者は滅亡したのである。