さて、藤田五郎の歴史。一介の新選組隊士で観ると、余り面白くはありません。


 正直、藤田五郎がブームとなったのも『るろうに剣心』がブームとなり、斉藤一が改めてクローズアップされてですが、その後の人生の研究があまりにも御粗末すぎました。赤間倭子・菊地明といった先人の研究が、疎か過ぎました。それも主因は、藤田五郎の人生と歴史の本流をつなげず、通史の流れを無視したために、藤田五郎の写真すら発見できず、除籍から『トキヲ』が本妻であり、『篠田やそ』の研究すら現行で会津では行われていない。会津史談最新号を会津まで行き、図書館で閲覧した際に呆れるばかりでした。
 基礎研究が疎かになっていた証左でしょう。
 正直、かの会津史談を読んだ際に市販されていない事を良いことに会津盆地の中でしか通用しない陰謀論が繰り返されてしまう。会津の書籍で堂々と「大室天皇」が述べられてしまう愚かさ。
 陰謀論を前面に立てて歴史を語る危険性。それでは『ネット右翼』と大差ない。
自分達にとって都合の良い歴史は、狂気の一歩手前でしょう。
 歴史に多様性があって良いという意見はありますが、《歴史観》はそれでも良いでしょう。
 但し、それをもて自らのコンプレックス解消のために「司馬遼太郎」は史実を語っているといった妙ちくりんな歴史を語るのはどんなもんでしょうか?
 正直、伊藤哲也氏の論文は読みずらい。主語がない論説だけに、主テーマが研究者あさくらゆう氏に対する批判なのか?批判は問題ないとしても、ポイントがわかりずらい。

 今回、ペーパーを作成した際に「新選組を探る」「斉藤一論考集」「流れる五戸川」以外に資料は引用していません。先行研究として菊地・赤間の論説について、新史料の解釈に失敗した故の解釈でしょう。

 新史料発見と歌う前に、『史料批判』が「如何に重要であるか。これに失敗すると、その後の研究に悪影響を及ぼすか。

 あと、オイラが疑問視するのは、藤田家は決して敗者ではない。その後の子息「藤田勉」が新生陸軍が健軍される課程で、柴五郎が陸軍大将に出世し、会津閥を形成する中で会津若松で陸軍連隊が編制される中で新たに幹部として採用され、陸軍幼年学校に入校し、明治陸軍で「秋山好古」の如く青年の志を持って新時代の主人公として会津が新時代に人材を輩出する。
 新時代のエリートとして現れるが、会津士道も維持し「嘘をつけば即!切腹!」といった口伝が藤田家に残る。
 実際に懇談会に出席させて頂いた際、あさくら氏が現当主藤田太郎氏を紹介させて頂き、藤田太郎氏から祖父である勉氏の逸話として厳しい逸話が残されている。
 御遺族から、こういった逸話を聞き取りし、後生に伝えるのも歴史でしょう。
 そして、新生明治国家で藤田勉が会津武士の系譜・新選組の近藤勇が『尽忠報国』の意思を第二世代ともいうべきにDNAとして伝えたかったか。これにより、新選組が通史として繋がり、第一世代が目標とした『尊皇攘夷』が二世代掛かったか。
 極端に述べれば、日本が不羈独立として存在する為には、世代交代するまで待たねばならなかった。そう考えれば、新選組の歴史は『凾館戦争』の土方の戦死が新選組の歴史の終焉ではない!明治国家の中で、新生日本の中で「斉藤一」の血脈・会津武士のスピリッツが新生日本のなかで脈々と生きている。柴五郎といった軍人から山川健次郎といった官僚系が明治で活躍できるのか?国会議員である柴四朗が活躍でいたか。
 飛躍しすぎと言われるが、明治の御代をもっと俯瞰的に見なければ、会津が『斗南』という雌伏の時代を隔ててこそ、新時代に人材を供給したといった歴史観に達成できない。

 会津も、そろそろ通史とつなげる努力をすべです。ただ、小説ファンを満足させる時代は新人物往来社崩壊で自覚すべきででしょう。

 


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