ギリシャ神話の中に、エコーという名の美少女が登場する。
彼女は、おしゃべりが大好きなウインサムな少女だった。
しかし、おしゃべりが過ぎた為に、神様からある日、口を封じられてしまう。
彼女に許された行為は、相手の話を聞いて、それをおうむ返しに同じことを云うだけとなる。
自分の意見は云えなくなってしまうのだが、舌を抜かれた訳でもなく、口を縫い付けられた訳でもないから、神様の言い付けに背けば、しゃべることはできる状態ではあった。
そんな彼女が、ある日のこと、旅の途中のナルシスという美少年と出逢い、恋に落ちる。
しかし自分から物を云うことを禁じられていた(神様の言い付けは、律儀に守る少女だった)ので、ナルシスの云うことに、ただ頷いておうむ返しをするしかなかったのだった。
(本当は、好きです!と告白したかったのに)
そんなエコーに嫌気がさして、ナルシスは立ち去ってしまう。
(ナルシスも又、自分以外の人を愛せないという宿命を背負った、ハンサムな少年であったのだが)
やがてエコーは、失恋💔のショックと、自分の悲哀を呪い、深い森の奥に入って姿を消してしまう。
以来彼女は、森の中の妖精と化して、永遠に人々の声を木霊(こだま)のように帰す存在になったという。
これは、ぼくがだいぶデフォルメして書いたギリシャ神話の中の一部だが、ぼくには無意識のうちに、他人のナラティブをデフォルメして、人に語ってしまう習性がある。
萩本欽一さんの少年時代のナラティブもそうだった。
和田裕美さんの無名時代のナラティブもそうだった。
たかの友梨さんの苦労した昔のナラティブもそうだった。
いずれの場合も、数年ぶりに、それらの元となった本を読み返してみて判った。
細部がかなり違っていたのだ。
更に小説の中の内容まで、ぼくがかつて感銘を受けた作品は、その多くが、ぼくが勝手にデフォルメして、その内容を改編して記憶してしまっているようなのだ。
改めて数十年を経て、小説を読み返してみると、その内容がまったく違っていたりして驚くことがある。
たとえば、五木寛之さんの70年代の作品「凍河」の場合。
主人公の青年に恋をした女子高生の女の子が、離れに住む青年の部屋を深夜に訪れるというシーンがあった。
ぼくの記憶では、彼女はパジャマの下半身をぜんぶ脱いで(上半身は着衣のまま)、彼の部屋へ入り「抱いて!」と云うのだが、読み返してみると、そんな描写はどこにもなかった。
ぼくが読み返した本は、2000年代に再発行された、新装版の「凍河」であった。
1970年代に発行されていた「凍河」は、残念ながら廃棄してしまっていた為(おそろしいほどのカビと変色により)確認する術がないが、ぼくは一瞬、このシーンが書き改められたのかな?と、疑ったほどだった。
だが、おそらくは、ぼくの勘違いだったのだろう。
当時の感受性が、そうさせてしまったのかもしれない、と思うのであった。
ガラスの少年の独自
いや、それは、君の勘違いではないよ!
あれから君は、たしか渋谷松竹まで出かけて、同名の映画「凍河」を観たはずだ。
君はその時、その問題のシーンが、映画ではどうなっているのか?に興味を持っていたよね。
ところが、君はガッカリして帰って来た。
映画では、上半身が裸だったからだ。
(下半身は、しっかりと下着を付けていた)
上半身が裸の場合と、下半身のみが剥きだしの姿とでは、あきらかに違う、と君は感じた。
それから君は、映画を観ることをやめたよね。
あれだけ好きだった映画を!
年間で200本以上も観ていた映画を。
君はそれから、文学の世界にのめり込むことになった。
文学には、映画では表現できない世界がある、と知ったからだよね。