ハンサムな彼とウインサムな彼女 | blondcoco の人生相談

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朱夏世代(30代、40代)の うつや思春期特有の悩みが 得意分野です。


ギリシャ神話の中に、エコーという名の美少女が登場する。

彼女は、おしゃべりが大好きなウインサムな少女だった。

しかし、おしゃべりが過ぎた為に、神様からある日、口を封じられてしまう。

彼女に許された行為は、相手の話を聞いて、それをおうむ返しに同じことを云うだけとなる。

自分の意見は云えなくなってしまうのだが、舌を抜かれた訳でもなく、口を縫い付けられた訳でもないから、神様の言い付けに背けば、しゃべることはできる状態ではあった。


そんな彼女が、ある日のこと、旅の途中のナルシスという美少年と出逢い、恋に落ちる。

しかし自分から物を云うことを禁じられていた(神様の言い付けは、律儀に守る少女だった)ので、ナルシスの云うことに、ただ頷いておうむ返しをするしかなかったのだった。

(本当は、好きです!と告白したかったのに)

そんなエコーに嫌気がさして、ナルシスは立ち去ってしまう。

(ナルシスも又、自分以外の人を愛せないという宿命を背負った、ハンサムな少年であったのだが)


やがてエコーは、失恋💔のショックと、自分の悲哀を呪い、深い森の奥に入って姿を消してしまう。

以来彼女は、森の中の妖精と化して、永遠に人々の声を木霊(こだま)のように帰す存在になったという。



これは、ぼくがだいぶデフォルメして書いたギリシャ神話の中の一部だが、ぼくには無意識のうちに、他人のナラティブをデフォルメして、人に語ってしまう習性がある。

萩本欽一さんの少年時代のナラティブもそうだった。

和田裕美さんの無名時代のナラティブもそうだった。

たかの友梨さんの苦労した昔のナラティブもそうだった。

いずれの場合も、数年ぶりに、それらの元となった本を読み返してみて判った。

細部がかなり違っていたのだ。


更に小説の中の内容まで、ぼくがかつて感銘を受けた作品は、その多くが、ぼくが勝手にデフォルメして、その内容を改編して記憶してしまっているようなのだ。

改めて数十年を経て、小説を読み返してみると、その内容がまったく違っていたりして驚くことがある。

たとえば、五木寛之さんの70年代の作品「凍河」の場合。

主人公の青年に恋をした女子高生の女の子が、離れに住む青年の部屋を深夜に訪れるというシーンがあった。

ぼくの記憶では、彼女はパジャマの下半身をぜんぶ脱いで(上半身は着衣のまま)、彼の部屋へ入り「抱いて!」と云うのだが、読み返してみると、そんな描写はどこにもなかった。


ぼくが読み返した本は、2000年代に再発行された、新装版の「凍河」であった。

1970年代に発行されていた「凍河」は、残念ながら廃棄してしまっていた為(おそろしいほどのカビと変色により)確認する術がないが、ぼくは一瞬、このシーンが書き改められたのかな?と、疑ったほどだった。

だが、おそらくは、ぼくの勘違いだったのだろう。

当時の感受性が、そうさせてしまったのかもしれない、と思うのであった。



ガラスの少年の独自


いや、それは、君の勘違いではないよ!

あれから君は、たしか渋谷松竹まで出かけて、同名の映画「凍河」を観たはずだ。

君はその時、その問題のシーンが、映画ではどうなっているのか?に興味を持っていたよね。

ところが、君はガッカリして帰って来た。

映画では、上半身が裸だったからだ。

(下半身は、しっかりと下着を付けていた)

上半身が裸の場合と、下半身のみが剥きだしの姿とでは、あきらかに違う、と君は感じた。

それから君は、映画を観ることをやめたよね。

あれだけ好きだった映画を!

年間で200本以上も観ていた映画を。


君はそれから、文学の世界にのめり込むことになった。

文学には、映画では表現できない世界がある、と知ったからだよね。