武市富子という人は、土佐藩勤皇の志士、武市半平太の妻だった。
半平太が獄につながれて、やがて切腹の命令が藩主山内容堂から告げられるその日まで(およそ2年あまりの間)、富子は自宅にあっても、布団の中では寝ずに、着衣のまま板敷きの上に薄い布をかけただけで、つまりは獄の中にいる夫と同じようにして過ごした(夏は蚊帳を用いず、冬も布団を重ねなかった)。
半平太が捕縛された日の朝、二人は捕らえに来た者たちを待たせておいて、ゆっくりと別れの杯を交わし、朝餉を味わうようにして食した。
それが今生の別れになるということが、二人には分かっていたのだ。
半平太は富子に対し、獄にはたずねて来るなと云い残し、罪人として去っていった。
富子は、夫に絵筆を差し入れした。
その絵筆を使って、半平太はたくさんの書簡を富子に宛てて書き、いよいよ切腹の日が近づいた時には、自身の自画像を描き、富子へ送った(形見のつもりだった。写真というものがまだなかった)。
切腹の日、半平太は富子がこしらえた白装束(下着も含めてすべて)に身を包んだ。
土佐藩では誰もしたことのない、三段斬りという荒技を用い、半平太は立派に死んでいった。
三度も腹を横一文字に斬るという荒業であったが、ほとんど呻き声すらも発さなかったという。
介錯人が首を斬り落とす前に、絶命して前のめりに倒れた。享年37歳であった。
それからの富子は、武市家存続のために奔走し、養子を得て、その子を半太と命名する。
やがて半太は、半平太の姪と結婚をし、一子をもうける。
その子の名前は、武市半一であった(後に医師となった)。
幕末に、明治維新を見ることなく死んでいった半平太の家系は、このようにして富子の力によってつながってゆく。
富子は、大正6年まで生きた。享年88歳だった。
半平太に嫁したのが、14歳の時。
以来、富子は74年もの間、半平太と共に立派に生きた。
お詫び
前回のブログ「お義父さん」の中で、あろう事か石田三成と記すべき所を、誤って石田光成と打ち込んでしまいました。
訂正して、お詫び申し上げます。