中原みすず著「初恋」は、コンプリートな小説だった。
見事なまでに、書き過ぎていなかったのだ。
書き過ぎなかったことで、コンプリートな作品になった。
そのコンプリートさにおいて、夏目漱石の「こころ」にも匹敵するのではないか?と、井戸端は思ってしまったほどだ。
日常生活においても、喋れば喋るほど、説明すればするほど、教えようとすれば教えようとするほど、インコンプリートさが増してしまう。
10の知識があるのなら、そのうちの2か3のみを開示すればいいのだ。
慎み深さは、逆に真実味を増すものなのだ。
泣いている人には、「そうだよね、わかるよ」と、頷いているだけでよい。
一緒に、その人に同情して泣くことなどしなくてよい。
相手が10喋るのなら、君は2か3のみを、ポイントだけを押さえて口にすればよい。
喋り過ぎれば、繰り返すようだが、インコンプリートさが増してしまう。
そんなことも、井戸端は「初恋」から学んだ。

赤と白と黒
子どもの頃、よく考えていたこと。
黒の反対の色は?
白だ!
じゃあ、白の反対の色は?
赤だ!
じゃあ、赤の反対の色は?
白だ!
じゃあ、白の反対は?
赤だ!
そうやって、赤と白とでいったりきたりになってしまい、いつまでたっても、黒にたどりつけなかったことを覚えている。

追伸 その1
ライオンやとらやひょうが、獲物を追いかけて相手を追い詰めたら、
必ず相手の、のどもとに噛みついて息の根を止める。
生き物というものは、すべからく、のどが急所だ。
人間もしかり。
それ故に、人は苦手な相手に対しては、無意識にあごを引いて対座するものだ。
あなたの愛する人は、あごを上げて、あなたにのどもとを見せて笑っているだろうか?
犬だって猫だって、飼い主に心を許せば、のどを大きく見せて眠るし、のどを触らても拒まない。
人も、同様なのだ。
追伸 その2
昨今、子どもたちの名前の読み方が難しくなっている。
読めない名前が多いのだ。
そしてたいていの場合、その名前には深い意味が込められている。
個人的な見解だが、井戸端は、名前には意味を込めない方がいいと思う。
そこに意味を込めれば、それとは真逆の世界が引き寄せられてしまうからだ。
引き寄せの法則がまだ認知されていなかった40年前から、どうしてか、そのこと(真逆になる)を不思議に思っていた。
静という漢字の入った女の子は、にぎやかだったし、太という漢字の入った男の子は、大概やせていた。
だから井戸端は、娘の名前には一切の意味を込めなかった。
第一に、音の響きを優先した。
第二に、苗字とのバランス、そして漢字で表記した時のおしゃれ感を重視した。
例えば、茉莉という名前のように、くさかんむりがそれぞれについているのは、とてもおしゃれだと思っていたので、それに習ったのだった。