『ランボー』と『ロッキー』は、俳優シルヴェスター・スタローンを象徴するシリーズだ。

スタローン自身が「ポジティブのロッキー、ネガティブのランボー」と表現するように、アメリカンドリームの『ロッキー』を “光”とするなら、『ランボー』はベトナム帰還兵の心の傷というアメリカの“闇”を題材にした、いわば裏のシリーズとも言える。

両者とも決して順風満帆なシリーズではなかったが、時にはファンを落胆、そして熱狂させ、気づけば四半世紀を超えるシリーズとなった。

そしてついに迎える最終章『ランボー ラスト・ブラッド』。今回は、紆余曲折のシリーズを振り返るとともに、作品の裏では常に製作に携わってきた“映画人”としてのスタローンの生きざまに迫ってみたい。 

記念すべき第1作『ランボー』が全米で公開されたのは1982年。『ロッキー』シリーズのヒットにより、すでにハリウッドスターの地位を確立していたスタローンだが、同シリーズ以外のヒットに恵まれず、なんとか新たなヒット作が欲しいとギャラを大幅に下げてまで出演したのが『ランボー』だった。 
ベトナム帰還兵のジョン・ランボーは、友人に会うため小さな田舎町を訪れるが、保安官にゴロツキ扱いされ逮捕される。強引な取り調べの中で戦争のトラウマが蘇ったランボーは、警察署を脱走。“一人だけの戦争”を始める。 “ランボーが敵を殺しまくるアクション映画”と思われがちな本シリーズだが、実はこの1作目では、ランボーは直接的には誰も殺していない。
戦争という地獄の中で殺人マシーンとして育てられた男が、社会復帰に苦しみ、そのやり場のない怒りと悲しみを激白するラストシーンは、このシリーズが社会派であることの真骨頂と言える。
映画は全世界で1億2000万ドル超えの大ヒットとなったが、米国内では同年公開の『ロッキー3』の3分の1の成績にとどまり、それがこのシリーズの路線を大きく変えていく。
 続く『ランボー/怒りの脱出』は、シリーズ最大のヒット作であると同時に、最低映画のレッテルを貼られた作品だ。 
ベトナムに捕虜が残されている証拠を撮影する、というCIAの任務を受けたランボーは、見事に捕虜を発見するが、CIAはいないと思っていた捕虜を実際に連れて来たランボーに困惑し、作戦を中止。ランボーは敵地に置き去りにされ、捕えられてしまう。 社会派の側面も強かった1作目から、続編はアクション重視へと路線変更。
一見すると文字通り“ランボーが敵を殺しまくる映画”にも見え、大ヒットしたことでさまざまなメディアが本作のパロディーをつくり、一層そんな印象をシリーズに与えてしまった。
また、米ソ冷戦時代という背景によって、ランボーの敵はソ連になり、“強いアメリカを表現した作品”というイメージが世界中に広がってしまった。
 だが、『ランボー/怒りの脱出』は次の2点で傑作であると言える。ひとつは、裏切られ怒りが頂点に達したランボーが後半で見せる、激しい戦闘アクションが素晴らしいこと。もうひとつは、ベトナム帰還兵の苦悩という社会派の側面を踏襲した、ラストの印象的なセリフだ。 
自分を殺人マシーンとして育て上げたトラウトマン大佐から「国を憎むな」と諭されたランボーは、「とんでもない、命を捧げます」と即答した上で、心の叫びを吐露する。「俺たちが国を愛したように、国も俺たちを愛してほしい。望むのはそれだけです」と。ほんの数秒のセリフの中に、ランボーという人間の、そして『ランボー/怒りの脱出』という作品の本質が詰まっている。 公開当時、第2作は“荒唐無稽な殺しまくるランボー”と揶揄(やゆ)された。だが、本作後半のアクションは、戦争しか知らない殺人マシーンがベトナムというホームに戻り、極限の怒りによって“死神”へと変ぼうした姿を忠実に描いているにすぎない。そして、本作におけるランボーの怒りの矛先は、決してベトナムの地で対峙(たいじ)するソ連やベトナムの兵隊ではない。あくまでCIA、母国の自分に対する仕打ちに心の底から怒っているのだ。 素晴らしいアクションとメッセージ性を備え、前作の倍以上の興収成績をあげたが、この年のゴールデンラズベリー賞では最低作品賞を受賞。同年公開の『ロッキー4/炎の友情』とあわせて10部門中7部門受賞という、実に不名誉な作品に祭り上げられてしまった。
 第3作は、現実の歴史に翻弄された不遇の作品である。本作でランボーは、アフガニスタンで捕虜として捕まってしまったトラウトマン大佐を救出しに向かうことになる。現実の世界では冷戦末期。映画の中でも、もはやベトナムは関係なくなり、「ランボーVSソ連」というわかりやすい図式が展開される。 
冒頭から展開されるアクションの連続は、確かにシリーズ随一の激しさ。スタローンの筋肉の仕上がりも最高潮と言える。だが、前作が酷評されたせいか、ベトナムの“死神”だったランボーは、少年と交流する心優しき男として描かれ、フットボールを愛する男に成り下がってしまった。 
さらに本作では、1979年からのソ連によるアフガニスタンへの軍事介入が物語の前提にあったが、映画が公開される10日前になってソ連がアフガニスタンから撤退を開始。図らずも戦争映画としてのリアリティーが損なわれてしまった。さらに不運なことに、劇中ではランボーがアフガニスタンのゲリラ兵、ムジャヒディン(イスラム戦士)らと共にソ連に立ち向かい見事勝利するのだが、現実世界ではソ連が撤退したことでアフガニスタンはその後内戦状態に突入。その結果タリバンが台頭していくことになる。そしてご存知のように、それが9.11同時多発テロへとつながっていく。エンドロールに表示される「この映画をアフガンの戦士たちに捧ぐ」というテロップが、時代と共になんとも皮肉なものになってしまった。 時代に翻弄された『ランボー』シリーズは、ここから約20年作られることはなく、スタローン自身のキャリアもどん底を迎えることになる。
 スタローンのキャリアを蘇らせたのは、もう一つの代表シリーズ『ロッキー』であった。2006年、御年60歳となったスタローンが監督・脚本・主演を手がけた『ロッキー・ザ・ファイナル』は、ファンの胸に熱いものを取り戻させ、スタローンがまだハリウッドの第一線で活躍できることを証明してみせた。そして次なる一手を心待ちにするファンの前にスタローンが差し出したのが、20年ぶりの続編『ランボー/最後の戦場』である。これまでも脚本には参加してきたが、この第4作では初めて自ら監督も務めている。 タイの奥地で暮らしていたランボーの前に、国境なき医師団の一行が現れ、虐殺行為が続くミャンマーまでの道案内を頼まれる。一度は断るものの、彼らの熱意にほだされはなんとか送り届けるランボー。だが、一行はミャンマー軍に捕らえられてしまう。今度は傭兵による救出部隊を送り届けるため、ランボーは再びミャンマーに向かうが…。 20年の間にアクション映画は進化し続けており、ベトナム戦争も冷戦時代も過去のもの。さらに主演俳優も明らかな高齢ときている。しかしフタを開けてみれば、そんな不安は消し飛ぶ傑作が完成。劇中で繰り広げる軟弱さのカケラもない圧倒的バイオレンスは、まるでビンタされたかのような衝撃だ。
 戦地から逃げようとする傭兵たちに「おれたちのような人間の仕事場はここだ。無駄に生きるか、何かのために死ぬか。お前が決めろ」というセリフは、全てを受け入れた純粋な戦士“ジョン・ランボー”だからこそ言えるもの。老年となってもなお、心の傷と過去を受け入れられていなかった“ベトナム帰還兵ランボー”は、母国のためでも誰かのためでもなく、“自分のために殺す”という運命を受け入れ、真の意味での“戦場の死神”として覚醒したのだ。そんな姿が、徹底したバイオレンス描写のなかに刻まれている。 そして、すべてを受け入れ戦い抜いた男が、裏切られ続けた母国へとついに帰っていくラストシーンは、ファンなら涙なしには見られない、見事なカーテンコール。 “映画人スタローン”の懐の深さを見せつけた作品となった。
 『ランボー/最後の戦場』から10年以上が経過し、突如発表された最新作『ランボー ラスト・ブラッド』。監督は新鋭のエイドリアン・グランバーグ、脚本・主演はスタローンが務める。2人は、シリーズの総括にふさわしいのは、原点に立ち返ることだと決意。第1作『ランボー』の原題は「First Blood」であり、本作はそのアンサータイトルとも言える。1982年の第1作公開から、37年。スタローンは73歳になり、アクションスターとして輝き続けていること自体が奇跡とも言える。キャリアのアップダウンの中で闘ってきたスタローン自身とも重なるランボーの勇姿にこそ、このコロナ禍を乗り越える元気が湧くというものだろう。(文・稲生稔)
「ロッキー」シリーズ以外のアクション映画の当たり役を得られないシルヴェスター・スタローンは、カロルコ・プロダクションのプロデューサーのマリオ・カサールが持ってきたある企画を受けた。
その企画は、デヴィッド・マレルの小説を映画脚本化したもので、ワーナーが映画化権を取得していたが10年間倉庫に仕舞い込まれていたものだった。
脚本を読んでスタローンは、新しいアクションに挑戦出来るジョン・ランボーに興味を持った。
スタローンは、元軍人からサバイバル・スキルを習い、退役軍人病院を訪問してベトナム退役軍人から様々な体験談を聞き映画の中に取り入れた。
またスタローンは、ジョン・ランボーを単なる殺人機械ではなく、なるべく敵意を剥き出しにするのを我慢し戦いを避け、トラウマに苦しむ人間性を盛り込んだ。クライマックスでランボーは、トラウトマン大佐に帰国後ベトナム帰還兵が舐めた辛酸や孤独感やトラウマについて激白するが、スタローンはそのシーンに帰還兵から聞いた悲しみや苦しみを込めた。
「ランボー」が公開した前後にスタローンは、ベトナム帰還兵支援組織に多方面から協力してベトナム帰還兵支援組織が全米に拡大して、ベトナム帰還兵の状況や苦悩が理解されることに尽力した。




「ランボー 怒りの脱出」では、あまり知られていなかった戦闘中行方不明者に着目して、スタローンは「俺たちがこの映画でやったことは、アメリカ合衆国やベトナム帰還兵や行方不明者に理解を深め、誇りを持ってもらうことだった」と、当時あまり知られていなかった戦闘中行方不明者に対する不当な扱いを周知させることに成功した。
だが一方で、レーガン大統領のタカ派的な姿勢に利用され利用したスタローンは、リベラル派から非難され、スタローンのイメージが「ムキムキの肉体でマシンガンを乱射する脳筋野郎」というイメージとして揶揄された。
だが、「怒りの脱出」でランボーが怒りを爆発させるのは、北ベトナム兵やソ連兵という以上に、戦闘中行方不明者の存在を隠蔽しようとするアメリカ政府に怒りを爆発させる。
陸軍復帰を勧めるかつての上官トラウトマン大佐にランボーは、「ベトナムで戦友がたくさん死に、俺の心も死んだ。陸軍に戻るつもりはない」と答えた。トラウトマン大佐は、「あの戦争は間違っていたが、国を恨むな」と諭すのに、ランボーは「国は恨まない。命を捧げる」と答えた。
トラウトマン大佐は、「君の望みは何だ?」と問うと、ランボーは「あの戦争中行方不明者と同じこと。遠く異郷で飢えに苦しみ戦った者たちが望んだこと。国を俺たちが愛したように、国にも俺たちを愛して欲しい」と激白するシーンは、戦争に参加した兵士の叫びを代弁した名シーン。






「ランボー3 怒りのアフガン」では、パワーアップしたアクションシーンと戦う理由をなくしたランボーが「虐げられた者のために戦う」という存在意義を取り戻す熱いドラマは好評だったが、映画が公開直前にアフガニスタンからソ連が撤退して映画のストーリーにリアリティがなくなってしまうというタイミングの悪さに遭遇する不遇な映画だった。



スタローンのような肉体を酷使するアクション映画は飽きられ始めていて、スタローンのキャリアも低迷期に入る。
「ロッキー・ザ・ファイナル」でロッキー・シリーズにケリをつけ低迷期から脱出したスタローンは、「ランボー」シリーズの新作の構想中にミャンマー軍がカレン族を弾圧していることを知り、「ランボーがミャンマー軍と戦う」ストーリーを思いついた。
監督、脚本も担当したスタローンは、今までのシリーズにはないミャンマー軍のカレン族に対する残虐な弾圧や戦闘シーンのリアルな描写にこだわった。おかげで、ミャンマー軍のカレン族への弾圧が、国際的に非難された。



「ランボー ラスト・ブラッド」では、故郷アリゾナの牧場で隠遁中のランボーが、メキシコの人身売買組織と戦うというストーリーで、国のためではなく家族のために戦うランボーの姿が描かれる。
未だに、戦争で負ったPTSDは癒えず、安定剤は手放せず、あらゆる銃やブービートラップ用の爆薬は欠かさないし、牧場の地下にはトンネルを張り巡らせ、あらゆる銃をトンネルに隠しておき、そこでなければ眠れないランボーの姿が、描かれている。
自分の命より、養子の娘ガブリエラのため死に場所を探して戦う老いたランボーの姿は、戦いの中でしか生きられない業を感じ、涙してしまう。



国というより同胞や愛する人のために戦うジョン・ランボーは、世界中で戦う兵士の代弁者であり、戦争で負ったPTSDに苦しみながらも戦いの中でしか生きられない業を背負った帰還兵の代弁者であり、孤独な戦いは戦争の残酷さや理不尽を教えてくれる。
シリーズは、最終章を迎えたが、戦争がこの世にある限り、次のジョン・ランボーが生まれる悲劇は続くのかもしれない。