【前回までのあらすじ】
協力においては、双方有利化やコミットメントなどを原因とする「交換モデル」について紹介した。交換で、単に個々の欲求が充足されるからといって、自分勝手な非協力をつねに排除できるとは限らないし、義務や責任が個人を縛り付けるにも限度がある。

近代以降の協力関係を主導したのは、契約によって部分的な遂行と譲歩で、共通のルールを設定することであった。この共通ルールの設定には、文字だけではなく、隠された奥深い集合的な力による共通のルールが存在すると言われている。

さて、ブラ三は個人の欲求を充足させるというエンターテイメントです。武将デュエルに特化するならば、同盟を組む必要はありませんが、ゲームの大きな目的としては7つの城を制圧することで、圧倒的な力を誇る英雄も僕の知る限りどこかの同盟に所属して、協力活動を行っています。そしてどんな同盟においても盟主ー幹部ー…ー同盟員という階層的な組織を構成しています。ゲームの仕様で幹部を設定できるからではありますが、ゲームの仕様以外の幹部もあります。

近代社会の進展する中でも協力を大量生産させることができたのは、このヒエラルヒーだと言われます。テレビをつければ毎日どこかで社会的格差とか、2極化だとかコメンテーターが指摘しますが、会社においてはそれとは逆行する形で社長がいて、上司がいて、僕がいることを受け入れている。実はこれは、平等性という倫理をどのレベルで考えるか、「結果としての平等」を問題にするか、それとも原点での「機会の平等」を問題にするか、ということで、必ずしも結果としての不公平があっても、入り口で平等が保証されるのであれば、みんなある程度ならば容認しているかもしれない。

近代の協力関係で、なぜ上下関係が必要とされているかについて次の理由があげられます。

実は、誰かと一緒にいるということ自体が、人間の活動にとって本質的なあり方であって、集団の中で存在するというあり方が、一人の個人にとっても様々なメリットが存在するということである。しかも、多様で異なる別人格の他者が一緒に協力しあうという点に、注目点が集まる。

・集団効果が働いて安全や安心が集団への所属によって保証されるという機能的効果もあるが、それ以上に、集団に所属すること自体に、参加の効果がある。

・集団内では、一人の位置付けというものが存在していて、この位置付けがその人に与えられることによって、個人はその集団組織によって生かされる面をもっている。

ヒエラルヒーという仕組みは、基礎的なところで、このような個人を集団に繋ぎとめる効果を持っていて、

普通、個人は自由を好むで積極的にはなかなか協力関係の中へ入っていくことはないけれども、ヒエラルヒーに位置付けられることで、個人は安定したアイデンティティ(自己同一性)を得られる場合があり、ヒエラルヒー関係には、このような集団組織の基本的なあり方として、まず集団効果を及ぼすことで機能するところがある、と言われいる。

参考文献
坂井素思、2014、「社会的協力論」放送大学教育振興会、p83-93