尾崎豊、没後30年 加藤登紀子が回顧「誰もが抱える孤独に寄り添っている」

日本のロックシーンを代表するシンガーソングライター尾崎豊が26才の若さでこの世を去ったのは1992年4月25日のこと。それから30年経ってもなお、尾崎の作品は広く愛されている。名曲『I LOVE YOU』をカバーしたシンガーソングライター・加藤登紀子(78才)が尾崎を回顧する。

7mの高さから落下。衝撃の出会い

「私が初めて尾崎さんにお会いしたのは、1984年8月4日に日比谷野外音楽堂で開催された『アトミックカフェ・ミュージック・フェス’84』というコンサートでした」(加藤・以下同) 

 

 このときの尾崎は、デビューしてわずか9か月。青山学院高等部を自主退学し、音楽活動に集中しようというときだった。一方、加藤は41才。『知床旅情』などのヒット作を持つ人気歌手として忙しい日々を送っていた。

 

「当時は好景気で、都会的で洗練されたポップスが主流でした。そんな時代ですから、ストレートに生々しいメッセージをぶつけてくるアーティストがいなかったんですね。なので、尾崎さんの曲を聴いてびっくり。舞台袖まで見に行きました。

 

 彼の全身からは言葉が飛び出ているようで、その言葉が私の心になだれ込んでくるんです。“すごい人だな”と耳を傾けていたら、いきなり会場が騒然とし出したんです。何事かと思ったら、尾崎さんがライブ中に、7mの高さのイントレ(移動式の足場。このときは照明台だった)から飛び降りたんです。スタッフは“救急車!”と叫んでいるのに、尾崎さんは倒れながらも歌っている。ボーカルが倒れているのに、周りのバンドメンバーも曲を止めないし……。あれは衝撃的な光景でしたね」

 

 このライブで尾崎は左脚を骨折。事件は瞬く間に知れ渡り、“尾崎伝説”の1つとなる。そして、けがから復帰した直後の1985年3月にリリースした2枚目のアルバム『回帰線』は、オリコンで初登場1位を獲得した。

 

 

 

無垢な少年時代を終え苦悩していた

「尾崎さんは、無垢な少年の魂のまま、曲を作っていたんだと思います。『I LOVE YOU』『卒業』『シェリー』など、彼の代表曲はどれも、3枚目のアルバム『壊れた扉から』(1985年リリース)までに収録されています。これはつまり、10代のうちに、作り終えていたということ。

 

 尾崎さんのアーティストとしての出発は、大人に対するカウンターパワー(対抗する力)でした。しかし、20才になり自分が大人側に立ったときに、何を表現すべきか見えなくなってしまったんでしょう。これは非常に苦しいことだったと思います」

 

 それでも周囲は、彼に“10代のカリスマ”でいることを要求し続けていく。それに応えるため、その後の尾崎は苦しみもがく。

 そして、20才になったばかりの1986年、無期限活動休止を発表し、単身渡米。表舞台から姿を消した。

 

 1987年7月にライブツアーを再開したものの、スターであり続けることの重圧は大きかったのだろう。9月には急病により全国ツアーを中断、同年12月には覚醒剤取締法違反で逮捕される。

 

 1988年9月に4枚目のアルバム『街路樹』がリリースされるまで、3年の歳月を要し、5枚目のアルバム『誕生』(1990年11月)のリリースには、さらにもう2年かかった。2年間で3枚のアルバムを作り上げていた10代の頃に比べると、曲を生み出す葛藤がいかに大きかったかがうかがえる。

 

曲のカバーで尾崎の世界観と向き合う

 加藤は『I LOVE YOU』をカバーし、歌手として尾崎の世界観と向き合った。

「この曲は、ひとりぼっち同士が、この広い宇宙の中で愛し合う、という内容なんです。漠然と言葉にできなかった孤独を“捨て猫”と表現しています。温かくやさしく、ストレートに愛を伝えながらも、人間はひとりぼっちだと歌っています。公園で子供をあやしているお母さんも、仲間に囲まれている人も、本人にしかわからない孤独はある。尾崎さんの曲は、誰もが抱える孤独に寄り添っているんだと思います」

 

 尾崎の訃報は、加藤がパリでのコンサートを終えて帰国し、成田空港にいるときに飛び込んできたという。

 

「1992年は、私も出演した、宮崎駿監督のアニメ映画『紅の豚』の公開や、夫(故・藤本敏夫さん)の参議院選出馬など、さまざまな出来事があり、私の人生でも波乱にとんだ一年でした」

 

 尾崎の早すぎる死も、そういう大きな事件の1つとして、加藤の人生に深く刻まれているという。