「何が見えておるかは知らんがまやかしぞ!よいな銀鼠!」
「なっ、さっきは見たものが全てと・・・!ひっ―――」

 銀次は迫る唐子(からこ)に目を見開いて釘付けになっていた。そんな自分に鞭打つように首を捻って前を向く。だが向き直っていざ走り出そうとする彼の眼前には既に、自分の顔より大きな顔が下卑た笑いを浮かべて貼り付いていた。
 茶器に見たあどけない子供の顔が彼のすぐ鼻先で、斜めに顔を傾(かし)いで歪(いびつ)な角度に揺れている。

「走れ銀鼠!ナンバはどうしたっ!」
「そうよ兄者!あとちょっとじゃ!」

 吐き気を堪えて顔を背けても唐子の顔はそれと同時に移動して、彼の視界の中央から執拗に嗤い掛けてくる。銀次の足は完全に止まってしまい殻のように身を固くして目を閉じた。

「まやかしぞ!」
 その時、再び叫ぶ紅掛の声が銀次の耳にこだました。せめて彼女を見ようと薄く目を開いたとき、銀次は狂ったように変化(へんげ)する紅掛の姿を見た。

紅掛の舌が――――
 並走する彼女の口からまるで真紅の蛇のように赤く長いものがうねり出て銀次の頬に触れた。
 彼女は時に敦煌の石窟にある阿修羅のように左右にそれぞれ二つの眼を持ち、或いはまるで弥勒菩薩のように静かな微笑をたたえ、そうかと思えば今度はヒンドゥーの神、象の頭のガネーシャへと目まぐるしくその姿を変えている。

 銀次は目を剥いて凝視した。
 さっきまで銀次を艶っぽくねめつけながら並走していた象頭が今度はまるで擬人化された官能へと形態を変えていく。
 それは吐き気とは無縁の神々しさ。銀次の目に紅掛は断固として美しく、そして言葉にするとそれは完全体だった。


『錫乎は――――――』
 前方を錫乎が「飛んで」居るのはわかっている。しかし彼女に至ってはもはや眩(まばゆ)い光陰でしかなかった。そして・・・
 錫乎が放つ光の矢が銀次を中から抉り出し、引き抜かれた彼の本体に破壊的な力がかかり始める。それは亜高速から超高速への変化が齎す重圧なのか、銀次はワープを直感した。
 往路とは違うこの有様を不思議に思う暇もない。彼はこの類稀な状況で、そして稀有な力を秘めたこの二人と共にいる事に只々驚くしかなかった。


 ふと銀次は今までとは違う空気を感じて立ち止まった。

――――――ここだ。すべてがここから始まった。
 そこはまさしくあの部屋、この悪夢へのエントランス。
桃華マンションの三〇一号室だった――――――


     *     *     *


「銀鼠!もとい根津銀次!別れの盃じゃ」
 紅掛が覆いかぶさる。
「な、何を・・・・」
――――――まるで阿片かヘロインでも喰らったような
 俺はきっとそんな顔をしているだろう。銀次は虚ろな目で紅掛を見つつそんな事を考えた。
「飲め銀次。飲んで忘れるが良い。そして二度と来ぬがよかろう。お主には到底・・・」


随分と情熱的な――――――
 そんな風に思った。口移しで何かを飲まされようとしている。そんな事はすぐに分かった。だがどうせ彼の中心はどうしようもないほど起立して抗(あらが)う気持ちなど微塵も無かった。
 正確には彼女の全てを受け入れたいと願った。彼女の全てを飲み干したいと・・・

「さらば銀鼠、根津銀次よ!」
 紅掛が手をかけた扉が銀次の背後で光を満たし、東京の空気が流れ込んで来る。
 そしてあの日、石崎川の畔へ投げ出された時と同じようにまたしても彼は投げ出され、しかし今度はそこは街の喧噪さえも今となっては懐かしいあの街、あの外神田、桃華マンションの三〇一号室前だった。