「そなたどこまで理解できておる」
「理解なんか!・・・・・理解なんかできない――――」

 出来るわけ無いじゃないか。 
 俺は桃華マンションの三〇一号室にいたんだ。外神田だぞ。その部屋へ入っただけで今は北海道にいる。
 渡島(おしま)半島――――もしもこれが大昔だったら「渡島の蝦夷」と蝦夷よりも先にくる場所だ。だがそんな問題じゃない。俺は東京にいたんだ。それに・・・

 

――――江差の南東にあり檜山郡上ノ国町に存在した中外(ちゅうがい)は既に歴史上幻の町と言ってよかった。

「そもそもおまえたちは一体!―――あ、あいつなんかまるで空を・・・」
「あれは錫乎じゃ。わしは紅掛という」
「ベニカ・ケ?」
「紅みが掛かる、という意味じゃ」
「お・・・俺は銀次――――」
「銀―――か・・・」


     *       *       *


 三人は石崎川の河原の砂利の上を上流へ向かって歩いた。あの旅の日、子供の頃に見た川は今の彼にはさぞかし小さく見えるだろうと思っていた。しかしこの川は今もこうして長大にそして滔々と流れている。
 銀次は胸の高さまであるゴム長を履き手に釣り竿を持つ父の、その肩の上から眺めた視界に思いを馳せていた。それは彼にとって本当の意味で最古の記憶かもしれなかった。
 だが不思議とその光景はいつも少し離れた所から父と自分自身を見る映像だった。


「やっぱりそうだ!」
「・・・・・如何した?」
「あの橋、あの吊り橋だよ!ま、待てよそうだ、今は一体―――お、おい、紅かけ」
「落ち着けと言うておる。まず我らが宿にて喉を潤すがよい」
「そうじゃ兄者。茶を飲もうぞ」
「す・・スズちゃん・・―――」

 銀次の記憶にある吊り橋は彼の家の裏手から延びていた。亀甲の文様に金網で編まれたその橋は当時でも既に所々に穴が開いていてたまに子供が落下した。
 今銀次の目の前を中空に浮かぶその橋はよく見ると当時の姿よりも更に粗末に作られ、一跨(また)ぎ毎には敷かれていた筈の木の桟すら無かった。

「そうか、ここを知っておるか・・・」
 紅掛はそう言うと一人先頭に立ち、おそらくはこの二人が踏み均したけもの道を山の方へ向かって登り始めた。
「ここじゃ」
「なんと・・・・」
 そこは彼があの旅の中、最も目指していた場所だった。


     *     *     *


 昭和四十年代の半ば、銀次が過ごした長屋風の宿舎の裏手からは、例の「たまに人が落ちる吊り橋」が伸びていた。その吊り橋は歩くといつも激しく揺れた。
 渡りきったその先は植生が違うのだろうかまるで南国を思わせる木々が生い茂り、川という開けた場所に面しているせいか太陽の光を浴びていつもきらきらと輝いて見えた。
 そしてその少しだけ奥まったところには小さいながらも朱色鮮やかな鳥居が立ち、中には同じく小さな祠が見えた。

「こんなに広かったのか・・・」

 その祠こそが彼女たちの塒(ねぐら)であった。だがこんな様式は見たことが無い。
 銀次が幼少の頃の記憶と同じように祠は背後の山を背負うように建ち、奥の半分は森に呑み込まれたかのようだった。だが実際に足を踏み入れるとそこは奥に向かって間取りが広く、中は住居と変わらない造りになっている。
――――俺が勝手に祠だと思い込んでいたんだろうか
 この状況を知っていれば誰もこれを祠とは呼ばず、もはや社というにふさわしい。ぱっと見で確認できるのはいわゆる拝殿のような入口部分のみであり、奥には高床でこそなかったが本殿の様な離れがある。どうやら二人はこの奥の間で寝起きしているようだ。
 探せば今入ってきた入り口付近から狛犬が出て来るかもしれない。

 

 裏手の入り口に面してまるで庭であるかのように開けた場所がある。切り株がいくつか残され椅子か台のようにして使い込まれているのが窺える。どうやらそこを縁側に見立て二人で森を開いたようだ。
 あちこちと見て回る銀次の顔に驚きを見てとったか紅掛が言った。
「わからんぞえ。どうやらお主がおったという時代はこれからじゃ。その間半分は朽ちたかもしれんしの」

 やがて錫乎が粗末な茶器を盆に乗せ甜茶の様なものを運んできた。
ゴクッ・・―――――
「んまい・・・・」
 葉を湧き水に浸し、ただ冷暗な場所へ置いてあったというそのお茶は、殊の外首尾よく銀次の喉を潤した。
「兄者、もう一杯じゃろう」
「・・・ありがとう」


     *     *     *


「あの坑道をゆくと戻って来たものは皆どうにかなりよる。ある者は数日は呆けた様になり、それでも人というのは何かを受け入れ何かを切り捨てながら生き続ける事が出来るようじゃ。だが、戻って来たはいいが廃人同然ということもある」
「その時は・・・」
「やがて死ぬ」
「俺もお前たちに会っていなかったら・・・」
「そこじゃ、問題は」
「・・・・?」
「気付いておろうな。あそこを通った者は人には見えん。しかし銀、主には」
「待ってくれ。おま・・いや紅掛。君たちはどうなんだ?ここの人々の目にちゃんと映って見えるのか?」
「見えん。わしは更に古い時代からここへ来た。じゃからここの人々には見えん」
 銀次の目に紅掛はまるで忍者の末裔ででもあるかのように映った。
「すると妹・・・かな、スズコちゃんも?」
「あれは坑(あな)で拾うた子じゃ」
「拾ったって・・・捨て子か」
「錫乎の事はわしにもわからん」
「と、飛んでいた・・・・よな?」
「兎に角わからん」
 見ると縁側ではその錫乎が子熊の頭をかいぐりかいぐりと・・・
―――――えっ!
「お、おい!クマじゃないのか?」
「放っておけ」
 少し離れた茂みの中では親熊がオロオロと心配そうにこちらを見ていた。

「問題ってのは・・・?」
「それじゃ。何故お主にはわしらが見える?」
「それは同じように坑道をくぐったもの同士・・・」
「確かにそうじゃ。じゃからわしらにも銀、お主が見える。じゃが・・・」

 銀次は外神田の自宅で観た昭和の動画、GHQのフィルム映像を思い出した。あの中で二人は存在しないも同然に振る舞い、そしてその姿は彼の友人たちの眼には結局映る事がなかった。

「よいか。先程から儂らがその進駐軍の撮影と遭遇した日の事を、その時代の事を大昔のように話しておるが・・・それが今じゃ」
「何っ?・・・という事はあれは終戦間もなくだから今は昭和二十年代半ば・・・」
「そうじゃ。学が無いせいかそれとも人里離れているせいか厳密には知らんがな」
「じゃあその時は場所だけを移動したと」
「わしらは往壌来雲(おうじょうらいうん)と呼んでおる」
「おうじょう――――らいうん?・・・あっ!ひょっとしてそれはこんな字・・・」
 そう言いながら銀次は何か書くものはと辺りを見渡した。彼の頭の中にはあの塗装店のユニークな物件名が呼び起こされ、手探りながら何とかあの四字熟語を思い出せそうだった。
 だが紅掛はそれを遮るようにこう言った。
「筆もあるし字も何とかわかる。だが何れわしらが識者の戯言やもしれん」
「わしら?」
「ここへ来る前の郷の親たちや仲間たち、その者らの知恵じゃ」

 やはり忍者かと・・・だとすると伊賀か甲賀か―――― そんな風に考えながら、しかし実際には以前本で読んだ事のある遠野の事ばかりが彼の頭の中に浮かんでは消えた。

「往壌来雲であってもそれは既に犬猫が宙を浮遊する霊でも見るがごとし。見えたとしてもだ」
「えーっと、今の俺は・・・」
「古鼈今月(こべつこんげつ)という。時間を超えてやって来た。だから土地の者にお主の姿が見えないのは当前じゃ」
「ということはやはり時空を超えた者同士なら見えるんじゃないのか?」
「そうかのう・・・しかし映写機に映っていたなどと、しかもそれを見ただのと・・・」

『お主、人ではないな』――――

 あの時の紅掛の言った言葉の意味が漸くわかったような気がした。しかし本当ならば銀次は益々混迷を深めたとも言える。

「その話を俺に受け入れろ・・・と」
「お主が受け入れようが受け入れまいがよくある事じゃ。山のせいかの、昔はもっと頻繁じゃった。それを人は勝手に神懸かりにあっただの狐につままれただのと・・・」


 そんなあらぬ話の推移の中で、でもどうしてだろう―――――
 銀次にはこうして彼女たちといる事が優しく穏やかにすら感じられ、そう思うと今はこうして錫乎と子熊のいる縁側へ立ち山の空気を胸いっぱいに吸い込まずにはいられなかった。