「外国で生きる」ことは難しい

 

こんなのは、世界中、「当たり前で)

 

 

同じで、わざわざ表題につけること自体が、”大げさです”

 

経験のない、芸人の、頭の良い、

 

「所ジョージ」さんでさえ、

 

以前、

 

「外国での移住した後、

 

成功できるできない、それ以前に、

 

外国で、食べていける、暮らしていける、だけでも尊敬します!」

と、言うくらい、難しいものです。

 

アメリカに『他人には野望を言わなくても、、”ほんの少しの”

 

夢や期待で日本からくる若者でも』

 

語学といい、仕事といい、Visaや、あらゆる権利、

 

すべての条件や環境で、

 

一番残りやすい国、

 

アメリカ(でさえ)に残れる(残る)

 

日本人は、

 

千人中、

 

いや

 

1万人中、”独りだけです”

 

 

ある一例では、

 

EU圏内でも同じことで、

 

まず、自国の学歴や

 

大卒、大学院卒、ビジネススクールで優秀な成績

 

など、

 

関係ないわけですし、

 

日本人(やアジア人)

 

ですと、

 

語学がだめですし、

 

日本語は、世界ダントツに、難しい言語です。

 

しかも、日本人なら、辛抱や、

 

努力や、

 

我慢や、

 

根性

 

などなど、が

 

他国の人より少しはましでも、

アメリカ人の平均的な、(あるいは、ほんの少し、以上に)

 

平均的な、

 

適度な州で、

 

適度な地域で、

 

適度な大きさと設備の整った、

 

家を買う

 

子供を二人、大卒まで、立派に育てる、

 

引退してから、自分たち夫婦も、まあまあ、平均的な老後を過ごせる、

などなど、

 

「欲、でもない、野望でもない、平均的な」

 

 

これらだけでも、99.999%、数字上、結果論的に、

 

日本人には、たいへん大変難しい結果なのです。

 

 

 

 

 

 

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地方では地道な努力がなされているが

米紙が報じる

 

「生き残り」をかけて

 

外国人労働者を雇う

 

日本の老舗企業

 
 
 
 
 
日本の老舗企業で働くベトナム人の従業員 Photo: Noriko Hayashi/The New York Times
 
 
 
 

 

ニューヨーク・タイムズ(米国)

 

Text by River Akira Davis and Hisako Ueno

 

歯止めのかからない少子高齢化により、日本の労働力不足は深刻化している。なかでも人手の足りていない地方では、老舗企業も「生き残り」をかけて、外国人労働者をますます受け入れるようになっているという。米紙「ニューヨーク・タイムズ」が取材した。

 

地方で深刻な労働力不足


4年前、「ひざつき製菓」は初めて外国人を雇用した。

東京都のさらに北、山岳地域の栃木県に位置する同社は、1923年よりせんべいやおかきなどの米菓製造を続けている。創業当時は「帝国煎餅」を名乗っていた。

現在、三代目社長の膝附武男は、父や祖父が経験することのなかった自社存続の危機に直面している。ひざつき製菓は、日本人の従業員を充分に確保できていないのだ。
 

何世紀にもわたって、ほとんど移民の受け入れをしてこなかった日本だが、人口の縮小と急速な高齢化のために、外国人労働者の入国と永住の可能性を認めざるを得なくなってきている。そのほとんどは中国、ベトナム、フィリピンなどのアジア諸国からの移民だ。

こうした外国人労働者受け入れ強化への転換は、この10年、主要都市部の大企業で徐々に進んでいる。だが、労働力不足がとりわけ深刻な地方では、ひざつき製菓のような老舗企業が、外国人労働者の受け入れにやっと取り組みはじめたところだ。

地方では、日本語以外の言語を話せる住民が非常に少ない。地元の共同体も新たな居住者の受け入れに慎重になりがちだ。そのため、地方へ居住することを外国人に説得できるかが、各企業の生き残りを左右することになるかもしれない。

東京に拠点を置く独立行政法人経済産業研究所(RIETI)の上席研究員である橋本由紀によれば、日本の地方経済の屋台骨である中小企業にとって、「外国人労働者は不可欠」だ。「外国人労働者なしでは、中小企業は破綻してしまいます」

日本には、たとえば言語的な補助といった必須の要素に関してさえ、外国人労働者を支援する全国規模の制度がない。現在、地方企業や地方自治体が、外国人労働者の長期支援策を急ぎ整備中だ

 

 

 

バックグラウンドに関係ない昇進


ひざつき製菓と外国人労働者との関係がはじまったのは、2020年のことだ。それまで20年にわたり社長を務めてきた膝附が、ベトナムからの移民労働者10人の雇用を決めた。

膝附はあるインタビューで、この新たな方針は日本人従業員たちのあいだに大きな動揺を引き起こしたと回想している。「私は彼らに言いました。『日本人を食わせていくために、我々は生き残らねばならない。我々が生き残るためには、外国人労働者を受け入れねばならない』と」

膝附いわく、彼はこの4年でベトナムやインドネシアから労働力を確保するため、さまざまな取り組みをしたという。現在ではこの2国出身の従業員が、全従業員210人中24人を占めるに至っている。

膝附は社の工場内に通訳を雇い入れ、社長自らが外国人従業員と直接やりとりできるようにした。また同社では、外国人従業員と日本人従業員の基本給を同額で毎年昇給させている。日本国内には、こうした方針を拒否する企業も多い。

膝附はいまから3〜5年のうちに、非日本人従業員を副ラインマネージャー、さらにラインマネージャーへと昇格させることを計画している。これによって、他の外国人従業員に対し、日本でもキャリアアップの機会があることを示したいという考えだ。

社内の日本人従業員たちも、外国人の同僚と働くことに慣れてきたようだと膝附は語る。
 

膝附の新たな方針にかかる期待は切実だ。彼は今後2年以内に、自身の息子に事業を引き継いでもらうつもりでいる。膝附は、次世代では、同社の従業員の半分を外国人労働者でまかなわなければならないはずだと予測している

 

 

 

 

 

不平等な待遇が人を遠ざけてきた


2023年、日本は同国に長期居住できる外国人労働者の範囲を拡大することを承認した。そして2024年に入ると、技能実習制度は育成就労制度に改められることが国会で決まった。

国内外国人の急増が社会不安を引き起こす可能性を危惧し、移民受け入れを最小限にとどめてきた国にとって、これは大きな転換だ。この変化は、日本における労働可能人口の減少がいかに深刻であるかを物語っている。

2024年10月1日に新首相となった石破茂は、労働力不足を補うための外国人受け入れを推奨してきた。

以前の政策においては、日本に入国できる外国人労働者の数は制限されており、滞在可能年限もわずか数年、賃金は同業の日本人労働者に比べ非常に低いものだった。複雑な支援制度や、外国人にキャリアアップの機会をほとんど与えることのない日本企業の階級構造に直面し、多くの外国人労働者が離職する結果となった。
 

RIETIの橋本いわく、日本は外国人の無期限滞在に関し、より広く門戸を開きはじめている。だが問題は、各企業に基盤となる経験がないことだという。

「日本は長いあいだ(外国人労働者に対して)閉鎖的でしたから」と橋本は言う。彼女いわく、最近まで「外国人労働者は3〜5年間就労したら、もうそれで終わり」であった。

橋本が言うには、昇給や言語補助など、長期的な外国人労働者の獲得に不可欠な取り組みをすでに始めている企業も、日本全国に存在する。だがそれ以外の企業では、「外国人労働者に対する根強い偏見や、一時的なものにとどまる支援制度が残り続けてしまう」とのことだ

 

 

 

 

「外国で生きる」ことは難しい


7月のある平日の朝、トラン・ビン・チュンはフライパンで卵を焼き、それをバゲットとスライストマト、ソーセージののった皿へと滑らせた。チュンの妻がアルミのフィルターでベトナム式コーヒーを淹れているあいだに、2人の子供がリビングで食卓の準備をする。

47歳のチュンは2年前、ベトナムはホーチミン市から栃木県へと移住し、建築現場の足場材などに使われる鋼管の製造メーカーである大和鋼管工業に就職した。創業92年の同社には、チュンを含めて6人の外国人従業員がいる。
 

翌年には、チュンの妻、20歳の娘、そして16歳の息子も日本に渡り、栃木の県庁所在地である宇都宮市の小さなアパートで、共に暮らしはじめた。

大和鋼管は外国人従業員に対し、家族を日本に帯同することを奨励している。その理由のひとつとなっているのが、家族と共に暮らすことが日本に長く留まるモチベーションになってほしいという、社長の中村慎市郎の考えだ。

20年前に父から事業を受け継いで以来、中村は自社にとって貴重な外国人従業員を支援するため、さまざまな方策を実行してきた。その内容は、空港に到着した従業員を車で迎えに行くといったささやかなサービスから、住居の斡旋といったより重要な福利厚生まで、多岐にわたる。

また中村は、外国人従業員を社内のさまざまな役職に異動させている。現場と事務の両面で、技術と経験を養ってもらおうというねらいだ。チュンも以前は人事部に勤務していたが、最近は営業部の副マネージャーに就任した。

だが、彼の作り出したシステムをもってしても、3〜5年以上は日本に留まりたがらない外国人従業員も多いという。
 

外国に家族のある従業員も多く、また、長年閉鎖的であった日本の共同体に所属し続ける意味を見出せないという者もいる。企業が提供できるものにも限界があることは、中村もよく理解している。

「外国で暮らすというのは大変なことですからね。それが人間なのかもしれません──自分の生まれた環境にいたいと思うものなのでしょう。家族のビザ取得には我々も支援を惜しみません。ここに根を下ろしたいと思ってくれるのは、いずれにせよ良い兆候ですから」

チュンの家族もこの1年で日本に根を下ろしはじめた。チュンのビザも無期限で更新される可能性があり、彼も家族もすぐにベトナムに戻るつもりはないそうだ。

とはいえ、どれくらい長く日本に残るかは、はっきりしないという。

チュンの息子は高校生で、サッカー部で友達もできた。娘は日本語を学びながら、家族が通うカトリック教会の関係で見つけてきた餃子店でアルバイトをしている。
 

チュンの妻は地元の焼き菓子工場に職を得て、幾人かのフィリピン人、ベトナム人従業員と共に働いている。だが、彼女は故郷が恋しいそうだ。冷淡な日本のスーパーマーケットよりもベトナムの野外市場が好きだし、できることなら年老いた母の近くに暮らしたいという。

この夏、一家はベトナムに滞在した。出発の数日前からスーツケースがリビングに置かれ、準備は万端だった。

リビングの壁には、チュンの息子が画鋲でとめた1枚の紙がある。彼は高校を卒業後、医学を学びたいと考えている。そこには漢字で「東京大学」と書かれていた

 

 

 

 

 

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世界が賞賛する「社会インフラ」を支える人材

 
 

英誌が日本の「コンビニで働く外国人」に注目 知られざるその胸の内

 
 
 
 

 

エコノミスト(英国)

 

Text by Econimist

 

コンビニで働く外国人の姿は、いまやおなじみの光景になっている。英誌「エコノミスト」が、ミャンマー人として初めてセブンイレブンの店舗オーナーに就任した女性に取材し、コンビニを中心に広がる日本の多文化共生を考察した。


いまの日本社会を知りたいなら、東京都港区にあるセブンイレブンに行ってみるといい。

コンビニは、日本が誇る質の高いサービスを体現している場所だ。店のドアが開くたびに、店員は「いらっしゃいませ」と声を張り上げて客を迎える。

棚には季節限定のお菓子が整然と並べられ、レジ前からは揚げたてのフライドチキンの香りが漂う。
 

港区にあるこのコンビニも一見、どこにでもある普通の店舗だ。同店が他と違うのは、セブンイレブンで初めてミャンマー人がフランチャイズチェーン(FC)加盟店のオーナーを務めていることだろう。

オーナーのメイジンチイツを含め、スッタフは全員ミャンマー人だ

 

 

 

 

コンビニ」を支える外国人労働者


コンビニは現代の日本社会にとって、必要不可欠な存在だ。1969年に最初の店が開店して以来、日本のコンビニは本家の米国より発展し、社会インフラの一部になっている

 

 

英誌が日本の「コンビニで働く外国人」に注目 知られざるその胸の内 | クーリエ・ジャポン

 

 

 

 

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日本への移住を選んだ彼らの本音

東京に亡命した中国人たちが語る「日本の良さ」と「いまとは別の中国」

 
 

 

 

 

ル・モンド(フランス)

 

Text by Simon Leplâtre

習近平政権による国内の統制が強化されるのに伴い、海外移住を選ぶ中国人が増えている。日本は米国などと並ぶ人気の移住先で、在日中国人の数は着実に増加している。なかでも、東京で暮らす中国人はこれまで以上に政治に関心を持つようになっており、集まりやイベントが積極的におこなわれているという。

仏紙「ル・モンド」が東京の中国人たちに、日本を選んだ理由、中国での苦しみ、そして彼らが構想する未来を聞いた

 

 

東京に亡命した中国人たちが語る「日本の良さ」と「いまとは別の中国」 | クーリエ・ジャポン

 

 

東京で中国を学ぶ中国人たち


何足もの靴がドアの前に並んでいる。東京の都心にある地味なビルの小部屋の入り口で、40人ほどの客が用意されたスリッパに履き替えていた。

2024年8月25日、その一室では、東京大学の社会学教授の阿古智子が、中国の農村部のあちこちに足を運んだ20年間の経験を語っていた。生き生きした目のこの小柄な女性が、日本語訛りの強い中国語で、2000年代初めの中国の農村部の様子を語っていく。電気のない村もあれば、建設計画のために住居の移転を強いられた住民もいた。忘れられた少数民族や人権保護の活動家とも交流が多かったという。

話を聞きに来た人は、事情に通じていない門外漢ではない。客の多くは最近、日本の首都で暮らしはじめた中国人なのだ。
 

「こういう講演会は、いまの中国では絶対にできませんから本当に新鮮です」

30代の中国人男性が笑顔で語る。学生ビザを取得し、4ヵ月前から日本で暮らしているという。「2022年を中国で過ごしたものでしてね」と意味ありげに言い添えた。
 

「脱出」ブームの要因


中国人の多くにとって2022年は、やっていられない1年だった。中国政府のゼロコロナ政策は、パンデミック対策として導入され、初期は成功を収めた。だが、その後、より感染力が高く、感染拡大を防げない変異株が出てきたのにもかかわらず、政府は厳しい行動制限に固執した。

その結果、都市部で暮らす中国人の大半にとって、2022年は、権力が私生活の内部にまで侵入する、きわめて恣意的な権威主義体制を経験する1年となったのだ。

2022年はまた、習近平が国家主席3期目続投を確実にし、最高指導部の顔ぶれを腹心で固め、バランスをとれる勢力が出てくる見込みがゼロになった年でもあった。
 

それ以後、中国経済は急失速。中国共産党の政権樹立75周年が祝われた2024年10月1日も、中国国内の雰囲気は陰鬱なままだった。経済は、繰り返されたロックダウンの悪影響がいまも残り、深刻な不動産危機とあいまって低迷が続く。米中対立は、貿易や地政学の方面でいまも続いている。

中国人が明るい見通しを持てず、それが国外脱出を選ぶ中国人の数を増やす要因になっている。2021年、中国のSNSで流行語になったのが「潤学」という言葉だ。大雑把に訳すなら、「脱出の哲学」といった意味合いである。ただし、実際に国外脱出の一歩を踏み出すのは簡単ではない

 

 

 

上海ですら「生活に適してない」


中国政府は、国外に移住した中国人の統計を公表していない。だが、国連の推算によれば、2022年に31万1000人が中国を離れたという。人気トップの移住先はいまも米国だが、裕福な中国人は、日本、カナダ、オーストラリアにも集まる。貧しい中国人が選ぶ移住先は、タイやマレーシアだ。

中国はもともと国外に移民を送り出す国だったが、2000年代の高度経済成長の時代は、国外移住を選ぶ人の数が減っていた。それが再び増加に転じたのが2018年だった。中国当局による社会の管理がきつくなったのが要因の一つだった。

共産主義体制に順応してきた中国人にさえ、近年の権力の硬直化は目に余るものだった。2022年から東京で暮らす上海出身のカイシュエン(仮名、29)は、「東京在住の中国人の大半は、自分と同じで政治運動に関心がない」と言う。
 

オーストラリアのメルボルンに留学した彼女は、中国に帰国した後、TikTokを運営する中国企業バイトダンスに就職した。給料はよく、スピード出世できるチャンスもあった。だが、すべてが新型コロナウイルス感染症のせいで一変した。

「さすがに上海ほどの都市では、住民の自由は守られるだろうと上流階級の人はたかをくくっていたんです。でも、ロックダウンがあって、私の両親も『ここは生活に適していない』と言い出しました。国外に脱出するか、あるいは緊急時に使える脱出口を確保しておくべきだという意味です」

カイシュエンの仕事も政治の影響を受けた。

「アニメと漫画が専門のプラットフォームで仕事をしていたのですが、規則がどんどん厳しくなりました」

検閲のせいで独創的なプロジェクトの数々がお蔵入りになり、出世できるチャンスもしぼんでいった。カイシュエンは、日系企業の中国支社に転職し、その後、その会社で日本への転勤を願い出た。
 

「日本でもらえる給料は、バイトダンスの頃の半分ほどですが、いつクビになるかわからない不安とは無縁でいられます。そこが中国に残った友人たちとは異なるところです。いま、中国のインターネット業界は修羅場ですからね」

2021年のデジタル・プラットフォーム事業者に対する規制強化は、中国のインターネット業界にとって手痛いものとなった。アリババのCEOだったあのジャック・マーも、その率直なもの言いがあだとなり、当局に目をつけられて、中国を離れざるをえなくなった。時代の寵児だった経営者が、中国、日本、アジアの国々を行き来しながら目立たないように生活をしているという。

カイシュエンにとって、移住先に東京を選ぶのは当たり前だった。「上海から2時間で行けて、時差も1時間しかないですから」