私は日本人だ」カザフスタンの荒野に47年、それでも名前の漢字だけは忘れなかった

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1946年に樺太でソ連兵に捕まり、以来、半世紀をシベリア、カザフスタンで過ごした小関吉雄氏(前列左から2人目)。いっしょに写っているのはカザフスタンの子、孫たち(1993年撮影、日本サハリン協会提供)

 

 

 

 敗戦後、ソ連に占領された南樺太では「民間人」が突然逮捕された。さらに、日本に帰ろうとする者、逆に家族との再会を目指し樺太に渡ってくる者が囚人となり、ラーゲリに連行された。軍人などと異なり、組織も名簿も持たない彼らは引揚げ事業の対象外とされ、数百人にのぼるシベリア民間人抑留者は「自己意思残留者」として切り捨てられた。ノンフィクションライターの石村博子氏は、新著『脱露 シベリア民間人抑留、凍土からの帰還』(KADOKAWA)で、実際にあった悲劇を丹念に掘り起こした。

 

 

  【写真】カザフスタンで「発見」された小関吉雄さんと、現地で知り合い結婚したエカテリーナさん  

 

 

(*)本稿は『脱露 シベリア民間人抑留、凍土からの帰還』(石村博子著、KADOKAWA)の一部を抜粋・再編集したものです。

 

 

 

 ■ カザフスタン・アルマティにて――1993年5月  ソ連邦解体によって独立国になったカザフスタン共和国で初の日本産業見本市が開催されたのは、日本大使館が開館されて間もなくだった。当時の首都アルマティにある体育館を貸し切り、家電製品、機械、日用品、衣類など商売になりそうな品がずらりと館内に陳列された。  日ロ貿易協会の寺尾近三氏は、活発に行われる商談のオーガナイザーとして連日会場中を駆け回っていた。活況を呈した見本市も最終日を無事終え、ブースの片づけをしていた時だ。現地のスタッフが「全然商売に関係なさそうな人が訪ねてきた」と寄ってきた。日本人と言っているという。  事務所の外に出ると、そこにはブーツ、外套、毛皮の帽子を身にまとった浅黒くてやせた初老の男性が立っていた。この人が日本人?  朝鮮人か中国人ではないかというのが寺尾氏の第一印象である(カザフスタンには強制移住させられた朝鮮人が多く住んでいた)。  口から出る言葉はロシア語である。事務所に入ってもらい、テーブルをはさんで向かい合うと、男性は言った。  「私は日本人で、名前はコセキヨシオと言う」  寺尾氏は驚き絶句する。カザフスタンにこんなかたちで日本人が住んでいるという話は聞いたことがなかったからだ。  コセキヨシオと名乗る男性は続けた

 

 

 

■ 男性は「小関吉雄」と、力を振り絞るように漢字で書いた

  「私は樺太で炭鉱夫をしていた。でも終戦時は九州の炭鉱に移されていた。戦後樺太に残った家族を捜すため、稚内から樺太に渡ろうとしたが、上陸直後にソ連兵に捕まって、シベリアのラーゲリに連れていかれた。そしてここまで来た。現地の女性と結婚し、子どももいるが一度は日本に帰りたい。日本の家族に会いたい。でも家族がどこにいるか、無事なのかもわからない。捜してもらえないだろうか」  メモ用紙を渡すと男性は「小関吉雄」と、力を振り絞るように漢字で書いた。日本語はほとんど忘れてしまっているのに、名前の漢字だけは覚えていることに、寺尾氏は強烈な印象を受ける。本籍を訊くと「北海道白糠」と答えた。年齢は73歳であるという。 

 

 

 必ず家族を捜し出すと約束した寺尾氏は、帰国後すぐに役所に問い合わせ、きょうだいの多くが松戸市に住んでいることを聞き出した。個人情報保護法のない時代、役所もとても協力的で躊躇なく教えてくれたのだ。寺尾氏は松戸のきょうだいのひとりに、カザフスタンで吉雄氏に会ってきたとの電話を入れた。  生きていたのか!  本当に吉雄なのか!?  

すでに吉雄氏は除籍され、存在しない人間になっている。実は寺尾氏は吉雄氏と別れる折、ツーショットの写真を撮ったのだが、目を離したすきにカメラは盗まれてしまっていた。現地で会ったという人物が吉雄氏と証明できるものは何もない。ならばときょうだいでお金を出し合い、弟の進氏がカザフへと飛んだ。  アルマティから東に約30キロのタルガルという小さな町。その町の郊外の木々に囲まれた小さな家に小関氏は一人で住んでいた。妻はすでに亡く、娘夫婦や孫たちは近くに住んで、頻繁に行き来しているという。吉雄氏の外見は樺太時代とはまるで違い、牧畜か農作業で風雨にさらされた人のものだった。 

 進氏と向かいあうと、昔の記憶が吉雄氏に鮮明によみがえってきた。家は塔路で豆腐屋を営んでいたこと。塔路の炭鉱で運搬機械係として働いていたこと、3つある部屋の一部屋一部屋には石炭ストーブが据え付けられていたこと……。  

「間違いない、吉雄兄だ!」  大使館員たちも息をのんで立ち会うなか、進氏は声を上げる。樺太の炭鉱夫だった兄が、なぜこんな遠い地で年老いるまで生きることになったのか。  吉雄氏発見の前後から、カザフスタン及びロシア・シベリアで戦後を生きぬいてきた日本人が次々と出現することになる

 

 

 

■ 流転の運命――

1946年6月~  その年の12月20日、小関吉雄氏は日本に一時帰国を果たした。47年ぶりの祖国の土である。黒い毛皮の帽子をかぶり、成田空港到着ロビーに姿を見せると、妹の吉良俊子さんが抱きつき頬を押し当ててきた。吉雄氏は目を赤くはらして何度もうなずき、詰めかけた報道陣に日本語とロシア語を交えて「夢のようで胸がいっぱい」と語るのが精一杯だった。  樺太時代から遡ろう。吉雄氏は兵役の経歴はなく、南樺太西海岸北部の塔路の炭鉱夫として働いていた。樺太の良質で豊富な石炭は、日本の産業の根幹を支えるものだった。  

だが1944年に入ってからは運搬船舶の極端な不足によって、日本本土への輸送が困難となり、増産から一転して廃止、休鉱などの炭鉱整理が次々行われていった。吉雄氏のいる塔路炭鉱も「急速転換措置」が命じられ、吉雄氏たち炭鉱夫は長崎県蛎浦島の三菱崎戸炭鉱に移転させられる。  ソ連侵攻と同時に塔路にいる家族との連絡はぷっつりと途絶え、島内に伝わってくるのは樺太の悲惨な状況ばかりである。徴用解除になった吉雄氏は、家族の安否を確かめるため、稚内から小舟に乗り込んで樺太への密航を決行する。  失敗を重ね、46年6月、3度目にようやく樺太の陸地に上がったが、そこで待っていたのは自動小銃を構えたソ連兵だった。その場で捕まり刑務所に入れられると、厳しい取り調べが行われ、ソビエト共和国刑法によって1年間の自由剥奪の判決が下される。 

 受刑者として船に乗せられウラジオストクへ。鉄道による劣悪な移送状況下、立ち上がることもできない状態になった末にマリインスクの収容所に送り込まれた。  樺太の家族は、吉雄氏が豊原の刑務所に入れられていることを伝えられていたが、その後のことは分からないまま47年7月に北海道に引き揚げる。まさにそれと同時期、吉雄氏は釈放の身となり刑務所から出ることを許された。  

だが釈放と同時にカザフスタンのタルガルに行くようにとの指令を受ける。全くの未知のタルガルという土地に着くと、そこで毛皮靴工場やコルホーズでの労働に従事させられた。翻弄されるまま、帰る手立てはどこにもない

 

 

 

■ 1961年3月31日死亡とみなす戦時死亡宣告  焦燥と不安を癒やしてくれたものは、目の前に広がる天山山脈だった。切り立った山並みの稜線はいつも雪におおわれ、白く輝く神々しさは樺太にも日本にもない心奪う壮絶な光景だった。  日本に帰った家族は吉雄氏を捜し、厚生省や赤十字あてに捜索要望書を何度も提出した。ソ連に遠征するスポーツ選手に手紙を託したりもしたが、行方は杳として知れない。  1965年には1961年3月31日死亡とみなす戦時死亡宣告が出され、やむなく受け入れることにする。北海道知事届けによる除籍は行われたが、葬儀は出さなかった。どこかで生きているのではと、出す気になれなかった。  吉雄氏には1953年秋に一度だけ、帰国の意思の有無を尋ねられるというチャンスが訪れていた。しかしちょうどその時期、遠方のフェルト工場に派遣されてタルガルを留守にしている最中だった。戻った時には帰国事業は終わり、寝食を共にしていた残留邦人の仲間はすでにカザフを後にして日本に向かっているという。生きていく力が身体中から抜けるほど打ちのめされた。  そうしたなかでロシア人とタタール人の混血のエカテリーナという女性と知り合い、支え合うことに安息を見出していく。彼女の両親は政治犯として行方不明で、自身もラーゲリを10年間も体験したという天涯孤独の女性だった。  1956年に長女ガーリャが誕生すると、家族を守るために再び訪れた帰国の機会を断念。それでも自分の名前の漢字だけは忘れまいと胸に秘めていた。国営の家畜牧場に勤め、しばらく穏やかな日が続いたが、75年にエカテリーナが心不全を起こして突然帰らぬ人となってしまう。1978年にガーリャが結婚すると、一人暮らしに入った。ずっと無国籍でいたのだが、年金受給のため81年にソ連国籍を取得する。  このままカザフの土になるかと思っていたところで、ソ連邦が消滅する。国も暮らしも激変するなか、吉雄氏は母親やきょうだいの夢を続けてみるようになっていった。そんななか、アルマティで日本産業見本市が行われていることを人づてに聞いたのである

 

 

 

 

■ 「戦争に翻弄された人生だった」「くやしい」

――2007年  一時帰国で戸籍も回復した吉雄氏は、永住帰国の意思を固めていた。日本から持ち帰ってきた雑誌を毎晩ベッドで眺めている姿を孫娘のアイーダはよく覚えている。庭のリンゴの木の下の椅子に座り、そこでも日本の雑誌を飽くことなくめくり続けていた。カザフに赴任した邦人ビジネスマンたちも吉雄氏を支援するのを惜しまなかった。  新独立国であるカザフスタンが有する国内事情もあって、出国手続きは煩雑を極めたが、官民の連携が功を奏し1994年7月、吉雄氏は日本に永住帰国を果たす。エカテリーナと暮らした家も天山山脈も、もう見ることは二度とない。  きょうだいが用意してくれたのは、松戸市内の四畳半に小さな台所がついたアパートだった。訪れた寺尾氏に「日本に帰って皆と会えてよかった」「カザフには他にも日本人はいるんだよ」と、言葉少なに語った。日本語力はずいぶん回復していて、楽しみは新聞を読むことだとも言った。それでも心を占めるのはカザフに置いてきた娘一家のことで、ぎりぎりの生活のなかからできるだけの送金を続けていた。  一人暮らしを頑張っていたのだが、2006年頃から衰えが顕著になり、入退院をくり返すようになる。きょうだいがお金を集めて娘と孫をカザフから呼び寄せ、最後の語らいの場を提供した。やがてアパートを引き払い、妹の俊子さんの家で暮らすことになる。ほとんどベッドに臥すなか、だんだん口も利かなくなり、子どものように泣きじゃくるときもあった。  「国のため、戦争のため、樺太から長崎に行かされ、シベリアに抑留された。戦争に翻弄された人生だった。くやしい」  弱みをほとんど見せたことのなかった吉雄氏が、唯一腹の底から吐いた言葉である。  2007年6月6日、起きてこないと俊子さんが様子を見に行くと、すでに息を引き取っていた。享年87。樺太で暮らしたのは最初の25年、以後約50年がシベリアおよびカザフスタンであった。

石村 博子

 

 

「私は日本人だ」カザフスタンの荒野に47年、それでも名前の漢字だけは忘れなかった(JBpress)