海外に出る前に知っておきたい「日本のキホン」
日本人は、仏教と神道を信仰してきたことを誇りに思うべきです
日本人は、仏教と神道を信仰してきたことを誇りに思うべきです | クーリエ・ジャポン (courrier.jp)
島田裕巳
Hiromi Shimada
「日本の宗教は何?」と海外の人に聞かれたとき、仏教と神道の関係を説明できますか? さらに「神道ってどんな宗教なの?」と突っ込まれたら、その特徴について語ることができますか?
日本人は「無宗教」と言うことが多いですが、その歴史を見れば、単に信仰心がないためにお正月には神社に初詣をして、お葬式をお寺であげているわけではありません。宗教学者の島田裕巳さんが解説します。
日頃、私たち日本人は、自分たちのことを「無宗教」だと考えています。ところが、世界を見渡してみれば、ヨーロッパや米国ではキリスト教が広がり、中東を中心にイスラム教が広がっている。東南アジアには最大のイスラム教の国、インドネシアがあるし、世界で最大の人口を抱えるインドにはヒンドゥー教とイスラム教がある。宗教が力を持っていない国や地域は存在しないのです。
無宗教を標榜する日本人も、葬式は仏教の寺院でおこない、初詣には神社を訪れます。いまや数多く訪れる外国人からすれば、意外にも日本人は宗教的な民族に見えることでしょう。ところが、その自覚がないため、日本人の宗教、とくに日本固有の神道について問われると、海外の人々に対してうまく説明ができない。これは、国際化が進む世界のなかで、少し困った事態です。
では、「神道って何ですか?」と問われたとき、私たちはどのように説明したらよいのでしょうか。
まず必要なのは、神道が日本民族だけが信仰する「民族宗教」だと説明することです。民族宗教は神道だけに限られません。ヒンドゥー教はインドの人々の民族宗教だし、ユダヤ教もユダヤの人々の民族宗教です。
重要なのは、キリスト教やイスラム教が広がった地域にも、それ以前に、それぞれの地域に固有の民族宗教が存在したということです。
ヨーロッパならケルトやゲルマンの民族宗教があり、その信仰はキリスト教のなかに取り入れられてきました。聖書には、イエス・キリストが生まれた日については何も語られていません。にもかかわらず、12月25日に定まったのは、ケルトやゲルマンの冬至の祭がもとになっているからです。冬至は、一年で最も日が短い日であり、世界の多くの民族では古い年が終わり、新しい年がはじまる日とされてきました。要は「正月」なのです。
イスラム教でも、巡礼地であるメッカのカーバ神殿には黒い石がはめ込まれており、巡礼者は懸命にそれに触れようとします。この黒石は、神殿ともどもイスラム教が生まれる前からそこにあったといいます。こちらは、アラブの民族宗教の名残なのです。
民族宗教の特徴は、キリスト教のイエスやイスラム教のムハンマド、あるいは仏教の仏陀のように創唱者がいないところにあります。創唱者がいなければ、教えもなく、創唱者が説いた教えを記した聖典もありません。
神道は、そうした民族宗教の特徴をもっともよく示しており、創唱者も教えも聖典も「ない宗教」としてとらえられます。一方、朝鮮半島から伝えられた仏教は「ある宗教」で、だからこそ中世から近世にかけては神道と仏教は融合し、一体化していました。そして、近代に入る時点での「神仏分離」によって両者は分けられ、今日(こんにち)のように神道と仏教は別個の宗教として確立されているのです。
日本人が、仏教で葬式をおこない、神社に初詣に出かけるのも、神道と仏教が一体化していた時代の名残なのです。そのように説明すると、外国の人々にも日本人の信仰が理解しやすくなるはずです。
なぜ「神」がたくさんいるのか
では、「神社で祀られている八百万の神々とは何か?」と聞かれたら、どう説明すればよいのでしょうか。
日本の神々は、キリスト教やイスラム教で信仰される、世界を創造した絶対的な神ではありません。そうした創造神を、神道の信仰は中心にはおいていないのです。
ただ、キリスト教でもイスラム教でも、どちらにも「聖人」に対する信仰があります。キリスト教だと、聖バレンタインや聖パトリックがそれにあたります。イスラム教だと、聖人の墓、廟が信仰の対象になっているのです。
聖人も特定のご利益に結びついており、その点で日本の八百万の神々に似ています。唯一絶対の神では、あまりに偉大で、人間にとっては距離がありすぎる。その点で、もともとは人間だった聖人は、人としての生涯を送ったわけで、親しみを持てる存在です。だからこそ、キリスト教徒もイスラム教徒も聖人を信仰の対象としたわけで、その点で、日本人が八百万の神々を信仰するのと共通しています。
日本の神々のなかには、『古事記』や『日本書紀』といった神話に登場するものもあります。アマテラスやスサノオ、オオクニヌシがその代表です。
一方、神話には登場しないが有力な神々がいます。それが、八幡神や稲荷神、天神です。こうした神々は、八幡神が軍神として、稲荷神が稲の神として、天神が学問の神として信仰されてきました。神々が役割を分担するのは、ギリシア神話と共通します。
さらに、日本の神々のなかには、もともとは「人」であった者が神になった例もあります。天神ももとは菅原道真という公家ですが、徳川家康は東照大権現として日光東照宮に祀られています。
海外の人々になじみ深い明治神宮であれば、明治天皇夫妻が祀られています。明治天皇が神として信仰の対象になったのは、明治時代において日本が近代化を果たすうえで絶大な功績があったと見なされたからです。
このように、もともとは人であった神々の場合には、一神教の聖人と性格がほとんど変わりません。
仏教と神道を共存させた日本
とかく日本人は、自分たちは信仰に対していい加減だと自嘲気味に語ることが多いです。神道にも仏教にもかかわり、おまけにキリスト教のクリスマスまでやっているというわけですから。しかし、神道と仏教をともに信仰するのは、上述したような歴史を経てきたからです。
クリスマスの場合にも、クリスマスケーキは食べても、イエス・キリストの誕生を祝っているわけではありません。それにクリスマスの行事は、すでに国際化していて、インドでも祝われています。ヨーロッパでも、教会のミサに参列するより、宗教性はすっかり薄れ、人々はクリスマス・マーケットでの飲食や買い物を楽しみにしています。神社の祭の屋台のようなものです。
ですから、私たち日本人は、自分たちの信仰はいい加減だと卑下する必要はありません。むしろ、古代から連綿と続く神道の信仰を現代にまで受け継いでいることに誇りを持っていい。一神教は民族宗教を駆逐することでその勢力を拡大しましたが、日本では仏教が広まっても、神道が消滅することはありませんでした。
自然環境の保護が叫ばれるなか、神社の鎮守の森は、自然を残す手立てとして極めて重要なものです。だからこそ、海外からの観光客も神社に対して並々ならぬ関心を寄せるわけで、神道の価値は今日になって改めて高く評価されているともいえるでしょう。
宗教施設は、どこも祈りのための場です。その点で、神社もその一つということになりますが、鎮守の森のような自然と一体化した施設は、ほかの宗教にはなかなか見られないものなのです