我が人生、最悪のトレッキング

沖縄の森で迷子になり、消防と警察に迷惑をかけたフランス人の回想録

 
 
 
 
 

 

リベラシオン(フランス)

 

Text by Quentin Girard

 

あらゆるトラブルを想定して周到な計画を立ててトレッキングに出かける人がいる一方、何の準備もせずに出かける安易な考えの人もいる。そんな準備不足は、いつ遭難につながるかもわからない。香港でワイン商を営むフランス人のマルタン(33)が沖縄のジャングルで過ごした地獄の夜を振り返る。


2017年、私は友人のヴァランタンとともにサーフィンをしに、3~4泊で沖縄に行く計画を立てた。私も彼も当時は香港在住だった。私たちは沖縄本島最大の都市に到着して早速レンタカーを利用しようとしたが、運転免許証の翻訳などが必要で手続きが複雑だったため、タクシーを使うことにした。ところが、そうやってかなり高い運賃を支払ってたどりついた最初のサーフィン・スポットには全然、波がなかった。

シーズンを完全に間違えていたのだ。私たちは沖縄本島の西岸にいた。おかしな考えが頭をよぎったのは、そのときだった。島の反対側まで歩いてみようかという話になったのだ。その日の午後を使い、やんばる国立公園を横断し、島の反対側のホテルに泊まろうということになった。

グーグル・マップで見るかぎり、その案は悪くなさそうだった。とはいえ2人ともトレッキングに出かける服装ではない。私はスニーカーに短パン。リュックには、ペットボトルの水と本とiPadが入っているだけだった。
 

私たちは、沖縄本島の大きさがまったくわかっていなかったのだ。そこに何の疑問も抱かなかった自分のバカさ加減にはあきれてしまう。

出だしは、いまもいい思い出として記憶している。小さな道が続き、素敵だった。日本のディープな田舎に入れた気分だった。それからしばらくしてジャングルが現れた。そういったところは香港と少し似ていた。道のアップダウンがそれなりにあり、暑く、湿度もある。緑が豊かで、道の両方に森が広がり、海岸から離れると、すぐに人家が見当たらなくなった。

一時間歩いたが、私たちは和やかな気分だった。舗装された道路は、巨大な電波塔の前で終わっていた。だが、そこから森のなかへ続く小道も見えた。ただ、狭い道なので、大人2人が縦一列にならなければならなかった。

グーグル・マップで見ると、その道は島の東岸に続いているように見えた。木々の枝に赤いリボンのようなものが付いているのも見えた。私たちはそれが道のありかを示す目印だと考えた。時刻はおそらく14時30分か15時頃だった。冒険の始まりだった。いや、正確にいえば、それは私たちのとてつもない大きな間違いの始まりだった。
 

「明朝まで捜索を中断します」


私たちは森の奥へと突き進んだ。「森の奥へと突き進んだ」というこの表現に誇張はまったく含まれない。ある時点で小道が見えなくなったが、それでも私たちは前に進み続けた。引き返しても元の道に戻れるのか、疑わしかったからだ。
 

川に沿って登ったり降りたりした。ときどき件の赤いリボンを見つけた。暑くて、湿度はきわめて高く、蛇の抜け殻があちこちにあった。そんな状況でも、暗い気分に落ち込むことはなかった。いずれ正しい道に戻れるだろうと楽観していたのだ。
 


だから、そんな状況でも、不安はゼロだった。昔ボーイスカウトだった私は、森でキャンプした経験も多かった。加えてヴァランタンとは非常に気が合う仲だったので、お互い相手に文句を言うこともなかった。とはいえ18時になると、さすがに遭難したことを認めざるをえなかった。水も多くは残っていなかった。私は歩くのを止め、緊急通報用電話番号に電話をかけた。

沖縄は外国人観光客があまりいないのか、英語がしゃべれる人に電話口に出てもらうまでにかなり難儀した。最終的には、昔は東京の警官だったという警官が対応してくれた。その警官は、私たちがどこにいて、周りはどんな感じなのかを尋ね、正確な位置情報を送信するように言った。

「高い場所に行って、そこを動かないでください。これからそちらに向かいます」

警官のその言葉を聞いて、私たちはすっかり安堵した。2時間待てば、きっと迎えがくるだろう。私はタバコを1本吸った。焦燥感はなかった。しばらくすると、サイレンやクラクションが聞こえた。遠くのほうにトラックの音も聞こえた。しかし、ただ時間が経つばかりだった。誰も到着する気配がなかった。警官から電話がかかってきた。消防が捜索しているけれども、私たちを見つけられないとのことだった。

あたりが真っ暗になりつつあったので、私はもう一度、電話をかけた。携帯電話の充電残量はわずかになっていた。そのとき電話の相手に言われた。
 

「明朝まで捜索を中断します。あなたたちを見つけられません。あなたたちがどこにいるのかわからないのです」

もう限界だった。私たちは、救助隊に文句を言った。夜になり、途方に暮れた。水はもうなかった。それが一番辛かった。正気も少しばかり失っていた。たとえば月を見て、それを街灯だと勘違いしたこともあった。

幸い、私たち2人の仲は悪くならなかった。ちょっとした焚火もした。私は持っていたライターを使って、本の紙を数枚燃やして火を熾した。その本はいまもよく覚えている。『木々の秘密の生活』という書名だった。私たちは地べたに寝っ転がり、睡眠をとろうともした。その頃すでに小さな虫が文字通り、私たちの脚を食べ続けていたことには、まったく気づいていなかった

 

 

深く残った心の傷


朝が明け、午前8時になったが、何の変化もなかった。この時点になるとさすがの私たちもパニック状態だった。充電残量も1~2%だった。私は電話をかけて言った。

「友人の体調が悪化しています。急いでください」
 

それは真実ではなかったが、そう言わざるをえなかった。すると、こう返答がきた。

「わかりました。では、ヘリコプターを出します」

これで1万5000ユーロ(約250万円)ふっとんじまったな、最悪だな、と私たちは言い合った。私たちは少し開けた場所を見つけ、Tシャツを脱いでそれを棒にくくりつけ、目印にした。しばらくしてヘリコプターの音が聞こえてきた。だが、そのヘリコプターが捜索していたのは、私たちのいる斜面とは別の斜面だった。私たちのGPSの位置情報が間違っていたのだ。

ようやく事情をのみ込んだ私たちは、最後の電話をかけ、自分たちがいる斜面は別の斜面だと伝えた。それでようやくヘリコプターは私たちを見つけ出し、私たちの位置を確認した。45分後、救助隊のオレンジ色の服を着た男たちが到着した。私たちは水とプロテインバーをもらい、救助隊に付き添われて出発した。

約1時間半歩いて、長尾橋という橋にたどりついた。森のなかの橋だ。そこでは150人ほどが私たちを待っていた。テントがいくつも設営され、トラックや救急隊もきていた。警察と消防の署長には、これまでの人生でいちばんと言っていいくらい、きつく叱られた。
 

署長にいわせれば、私たちは「本当に無分別」だった。

 

 

あんな森の奥まで遭難者を探しに行ったことはこれまでなかったと言われた

 

 

毒蛇も多い、きわめて危険な場所なのだという。

 

私たちが目印にしていた赤いリボンは、

マングース駆除のハンターが使うものだったらしい。

私たちは警察署に連れて行かれ、そこで身元の確認作業をしてもらった。

 

費用を支払うことはなかった。

 

遭難の代償は、虫のせいで脚にできた大きな赤い斑点の数々と、

大きな心の傷だけだった。

 

もっとも私は数年間、

この一件を自分の家族にも話せずにいた。

いまでもトレッキングに出かけるときは、心がざわめく