[梶山正さん]妻のベニシアさんが亡くなって1年 コロナ禍をグループホームで過ごさせてしまったことへの後悔
インタビューズ
英国出身のハーブ研究家、ベニシア・スタンリー・スミスさんが、誤嚥(ごえん)性肺炎で亡くなり、1年がたちます。京都・大原の築100年を超す古民家に家族と住み、和洋のハーブを生かした暮らしぶりは著書「ベニシアのハーブ便り」やNHKの番組「猫のしっぽ カエルの手」で紹介され、その自然と調和したライフスタイルが多くの人の共感を集めました。晩年は進行性の脳の病気で徐々に視力を失い、介護が必要になりました。夫で写真家の梶山正さん(64)に、悩み、戸惑いながら共に過ごした日々について、語っていただきました。(聞き手・松本由佳)
【写真3枚】ベニシアさん 築100年を超える古民家での暮らし
しょぼい男は勝てない
元気なころのベニシアさんと梶山正さん(大原の自宅で、梶山さん提供)
――ベニシアさんは、昨年6月21日、夏至の日に亡くなりました。72歳でした。
目が見えにくくなってから、グループホームや病院での生活を経て、
最後の9か月は自宅に戻り、
家族や知人に囲まれて過ごすことができました。
思えば1996年にこの家を見に来た時、
ベニシアは「私はここで死ぬと思う」と言っていたんです。
まだ小さかった息子と3人で京都の町中から引っ越してきました。
英国の貴族の出身なのに、19歳でその世界を嫌って飛び出し、日本にたどり着いた彼女が、終(つい)の住処(すみか)だと直感したのだと思います。
連れて帰れてよかったと思っています。
亡くなって数か月は抜け殻状態だったんですが、
依頼を受けて8年間の介護生活を「ベニシアの『おいしい』が聴きたくて」(山と渓谷社)という本にまとめました。
つらかったけれど、何とか書き上げられてよかった。
ベニシアと僕、そして関わってくれた人たちの思いや体験を、
多くの人と共有できたらと思っています。
本を書いてよかったことはもう一つあります。
実は、僕はベニシアが注目されていくのを、
面白くないと思っていました。
彼女は日本語で話すことはできるけど、読み書きはできない。
最初に地元の京都新聞で連載を始めた時も、
僕が毎回、彼女の英文を翻訳して、直して原稿にした。
本にまとめる時も、僕の写真は使われたけど、注目されるのはベニシアで僕は裏方。
ひがみや鬱屈(うっくつ)をずっと抱えていました。
前夫との間に生まれた娘たちが家に転がり込んできて、
彼女たちと折り合いが悪かったこともあって、僕は家を飛び出して他の女性と暮らそうとしていた時期もあります。
ベニシアには才能や力がある。
しょぼい男は彼女に勝てないと思って、そんなふうになってしまったのかもしれない
本を書くことで鬱屈から解放された
梶山正さん著「ベニシアの『おいしい』が聴きたくて」(山と渓谷社、1980円)
――心境の変化がありましたか。
自分の弱いところは常に見ていたつもりなんやけど、自分の世界を一冊の本としてちゃんと作り上げてやり遂げることができて、やっと鬱屈から解放された気がします。以前は、僕は雌に食われるカマキリの雄みたいだ、などと思っていました。でも今はもう、そんなふうに思う必要はないんだという気持ちになっています。
人間としてお互い認め合っていれば、くだらんようなやり方で不満解消すべきじゃない。でも僕はできなかった。今になって分かる。反省するばかりです。少しは成長できたのかもしれません。
脳の病気を患い、介護施設へ
――ベニシアさんはどんな病気だったんですか。
PCA(後部皮質萎縮症)という脳の病気です。2018年に京大病院で診断されました。視覚を担う大脳の後頭葉が徐々に萎縮していく病気です。ベニシアはずっと目が見えにくいと言っていて、眼鏡を替えたり、白内障の手術をしたりしたんですが、一向によくならなかった。眼科では目はきれいだから、神経に原因があるのではないかと言われ、脳神経内科を受診して、初めて深刻な状況だということが分かりました。
病名を知ることはできても、自分が何をしたらいいのか分からない。
知人のアドバイスで地域包括支援センターに連絡しました。
ベニシアは当時67歳。介護サービスを受けられる年齢でした。要介護1と認定され、週5~6日、訪問介護のヘルパーが来てくれることになりました。
食事は全て僕が作り、家の中でトイレに行くときも、スーパーで買い物をするときも、僕が手を引いて歩きました。
――なぜグループホームに入所することを決めたんですか。
認知症の症状も出始め、
このままでは僕も家に閉じ込められて仕事ができなくなると思いました。
精神的に追い詰められ、ベニシアを思いやる余裕がなかった。
ベニシアは嫌がっていたのに、
「自分で自分のことができなくなったら、施設に入ってもらう」と何か月も言い続けていました。
コロナ禍の21年に、面会ができるグループホームを見つけてそこに決めました。
施設に入るのは当たり前だとも思っていたし、周りもそう言っていた。
でも本当は訪問診療など、在宅で見続ける道もあるのに、自分のことばかり優先していたよね。一緒に住んでいる人が覚悟を決めたら、施設が絶対ということはないと今は思います。
介護から解放されたはずなのに、ベニシアに悪いことをしたという気持ちが強くて、毎日会いに行きました。でも1か月ほどしたら緊急事態宣言で面会禁止になってしまった。
40日後に解除され、会いに行くと、ベニシアは「すみません」と言う以外は英語しか話さなくなっていた。閉じこもって、誰とも話さなかったのでしょう。歩くこともできなくなっていました
幸せな時間は続かなかった
――コロナ禍を乗り越え、ベニシアさんは少しずつ元気を取り戻しましたが……。
ここにおったらあかんようになる、むちゃくちゃにされると思った。
今思えば、この時、無理にでも連れ帰ればよかったのに、しなかったことが悔やまれます。
再び、面会できるようになってからは、
まず立たせて、
手を引いて、
少しずつ歩かせるようにしました。
徐々に歩けるようになって、
外出許可も出て、
家族や友人を集めたランチ会を計画して月に数回、
自宅に連れ帰ることができました。
ベニシアも元気を取り戻していきましたが、
「施設に戻りたくない」とは絶対に言いませんでした。我慢していたんだと思います。
断続的な面会禁止期間を経て、22年春にやっと京都府のまん延防止等重点措置が解かれました。
僕は車椅子のベニシアを車に乗せて、宝ヶ池公園に散歩に行くようになりました。
ベニシアとつきあい始めた頃、
近くに住んでいてランニングコースにしていた思い出の場所です。
僕はインドカレーの店を開いていて、ベニシアはよく来てくれていたんです。
お互い最初の結婚を失敗して、誰にでも親切で優しいベニシアに僕は惚(ほ)れていた。
ある年の正月に、ベニシアの家に「走っていくよ」と言ったら、
ベニシアは「正はそんなに自分のことを好きなのか」って思ったらしい。
ランニングしながら行くよという意味だったんですが。
思い出の場所で昔を懐かしみながら、散歩のおやつにベニシアの大好きなストロベリーアイスクリームを買って、一口ずつ食べさせてあげました。でも、そんな幸せな時間は長く続きませんでした。その年の夏、施設でコロナのクラスターが発生し、ベニシアも感染してしまったのです。
かじやま・ただし
1959年、長崎県生まれ。写真家。ネパール・ヒマラヤでのトレッキングの後、インドを放浪し、帰国後は京都でインド料理店を開く。92年、店の常連客だったベニシア・スタンリー・スミスさんと結婚、フリーカメラマンとしての活動を始める。山岳雑誌などで活躍。ベニシアさんとの共著に「ベニシアと正、人生の秋に」「ベニシアと正2 青春、インド、そして今」「ベニシアと正3 京都大原・二人の愛と夢の記録」など
[梶山正さん]妻のベニシアさんが亡くなって1年 コロナ禍をグループホームで過ごさせてしまったことへの後悔(読売新聞(ヨミドクター)
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道 · Mine Kawakami
NHK番組
「猫のしっぽ、カエルの手」
サウンドトラック
Provided to YouTube by TuneCore Japan 道 · Mine Kawakami NHK番組「猫のしっぽ、カエルの手」サウンドトラック ℗ 2020 Mine Kawakami music office Released on: 2020-12-23 Composer: Mine Kawakami Auto-generated by YouTube.
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映画『ベニシアさんの四季の庭』予告編
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