「英雄色を好む」とよく言いますが、

世の中には、
 
何事でも例外というものがありまして、
 
わたくし、何ぞや、
 
「英雄でもないのに、”単なる、色(艶)を好む”」
 
翻訳いたしますと、
 
「ただの、スケベ!(爺)」
 
ということになりますが、
 
いや、私の場合は、(自己評価、自己分析ですが)
 
たんなる、
 
”女好き”の方が、正解かと思います。
 

 

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色の好む武将たちの中でも、

ダントツにスケベだった人物

とは…?

 
 
英雄色を好む」とよく言いますが、もちろん戦国武将の中にも「女性が大好き!」という人物がいました。武士たる者、出来るだけ子孫を多く残し、家を繁栄させる目的があったからです。
ちなみに織田信長には男子と女子がそれぞれ12人、計22人の子供がいましたし、妻に関しては正室の帰蝶(濃姫)の他に11人の側室がいたそうです。

実直で律儀で知られた徳川家康も、正室の築山殿・継室の朝日姫の他に、75年の生涯で21人もの側室を抱えていました。驚くことに家康は70を超えてから14人の側室を侍らせ、一人で閨に入ることはなかったとも。そのエネルギッシュさはまさに驚きですね。天下人としての欲望もさることながら、とにかく「できるだけ多くの徳川の血を残したい!」という執念すら感じます。

しかし、そんなことで驚いていたらいけません。信長・家康と比べてもっともっと凄い武将がいました。それが三英傑の一人「豊臣秀吉」です。
秀吉の女好き・女狂いはとにかく有名で、宣教師ルイス・フロイスの書簡によれば「300人もの側室がいた」と記述されていますし、信長の「名物狩り」ならぬ「美女狩り」をおこなったなんてことも!
秀吉は実際に、見目麗しい女性がいれば、身分の上下を問わず召し出そうとしましたし、さらに言えば高貴な女性を好みました。やはり低い身分から出世しただけあって、高嶺の花を手に入れたい。そんな思いがあったのかも知れません。

そこで今回は、秀吉に関係する女性たちの中から、彼が特に気に入っていた美女ベスト5をご紹介し、知られざる秀吉の“人となり”をクローズ・アップしたいと思います。ちなみに、正室のおね(北政所)は別格と致しました。

第5位:「甲斐姫」
麗しい女武者から秀吉の側室へ


映画や小説となった「のぼうの城」をご覧になった方なら、甲斐姫をご存じではないでしょうか。天正18年(1590年)に起こった秀吉による小田原の役の際、関東で唯一落とせなかった忍城を守ったヒロインですね。甲斐姫は美貌だったうえに武勇にも優れていたそうです。
忍城主だった成田氏長の娘ですが、父は北条氏の本拠小田原城に籠城しており、彼女は忍城に残っていました。

そして城代の成田泰季、息子の長親とともに、わずか500の兵で豊臣軍2万3千と死闘を繰り広げます。敵の猛攻や水攻めにも屈せず、その戦いぶりは勇猛そのもの。この時の様子を記した「成田記」には甲斐姫の活躍ぶりが描かれています。

名刀浪切(なみきり)を携えた甲斐姫は敵の猛者を相手にしても動じず、女と見て侮った敵を次々に斬り捨てました。その武勇を見た豊臣軍は恐れをなし、遠巻きにするだけだったとも。
甲斐姫の活躍もあって1ヶ月以上城を守り抜いたのですが、すでに小田原城も降伏しており、ついに成田氏長から「開城せよ」という指示が来ました。城を出ていく際、甲斐姫はじめ城兵たちは威風堂々とした態度だったといいます。

やがて成田氏長は会津の蒲生氏郷に仕えますが、甲斐姫の美貌を聞きつけた秀吉は興味を抱き、側室にしたいと願いました。男勝りでたくましい女性に引き付けられたのでしょう。
甲斐姫は秀吉が亡くなったのちも大坂城に居続けました。そして大坂夏の陣で豊臣家が滅ぶと、秀頼の娘だけは尼になることを条件に助命されます。娘は天秀尼となって鎌倉の東慶寺で暮らし、甲斐姫もまた出家して天秀尼に仕えたそうです。

女性でありながら戦いに臨んだ姫は珍しくはないのですが、特に人気があるのはやっぱり甲斐姫ですよね。たしか映画「のぼうの城」で甲斐姫を演じたのは榮倉奈々さんでしたっけ。
しかし甲斐姫が秀吉の側室になったのは、何も悪いことではありません。北条氏が滅亡したあと、父成田氏長は蒲生氏の客将だったのですが、甲斐姫が召し出されたおかげで烏山(からすやま)2万石の大名になっています。その後、成田家は江戸時代を通じて続いていますから、まさに甲斐姫のおかげで家が残った。そんな感じでしょうか。彼女に関する多くの逸話が知られていますが、厳しい戦国の世を生きた甲斐姫だからこそ、女性としての芯の強さを感じますよね。

第4位:加賀殿(前田利家の娘)
なんと35歳年下の親友の娘を側室に!秀吉の意図とは?


天正13年(1585年)頃に秀吉の側室となったのが摩阿姫こと加賀殿です。のちに五大老となる前田利家とまつの間に生まれたとされていますが、利家の側室が産んだという説もありますね。
とはいえ摩阿姫にはもともと許嫁がいました。それが佐久間十蔵という若武者です。織田家の家老だった佐久間家が没落し、それを憐れんだ柴田勝家が十蔵を養子にするつもりで引き取っていたとも。

また当時の前田家は柴田勝家の与力となっていて、非常に深いつながりとなっていました。摩阿姫と十蔵が結婚すれば、さらに密接な間柄となることでしょう。ところが運命の歯車は無情に狂い始めるのです。
天正11年(1583年)、賤ヶ岳の戦いが起こって柴田勝家が敗北。十蔵も討ち死にしました。やがて秀吉の軍勢が勝家の本拠北ノ庄城へ迫ってきます。人質として摩阿姫も城に留め置かれていたのですが、侍女の機転もあって脱出。なんとか実家へ戻ることができました。

しかし勝家に味方した利家は窮地に陥ります。秀吉に降伏して許されはしたものの、非常に立場は危うくなっていました。そこへ越中の佐々成政を下した秀吉軍が金沢へやって来たのです。
美しい摩阿姫を見た秀吉はすぐさま気に入って大坂へ連れ帰ることを望みました。もちろん利家には断ることなどできません。前田家を救うために娘を差し出した。そう取られても仕方がないでしょう。
それにしても秀吉は50歳近い年齢、摩阿姫はまだ14歳ですから、あまりの年下ぶりに驚かされますね。

やがて大坂へ赴いた摩阿姫は加賀殿と呼ばれ、側室の一人となりました。生まれつき病弱だった彼女に対し、秀吉は優しい態度で接したそうです。
ちなみに加賀殿の妹・豪姫は秀吉の養女になりました。さすがに姉妹を側室にすることは憚れますから、豪姫は養女として引き取り、のちに宇喜多秀家の正室となっています。
秀吉が亡くなる直前、加賀殿は側室を辞して公家の万里小路充房の側室となりました。やがて男子を産むと離縁し、故郷の金沢へ戻ったそうです。

摩阿姫が秀吉の側室となった背景には、秀吉と利家双方のメリットがあったようです。秀吉からすれば摩阿姫の存在は人質代わりですし、これから前田家が豊臣政権の重鎮となってもらう意図もありました。利家の娘を手元に置くことで、より深い関係を築きたかったのでしょう。また妹の豪姫を養女としたのも、同じ意図があったはずです。
ちなみに秀吉が築いた伏見城が完成した時、加賀殿は城下の前田屋敷に留め置かれました。これは秀吉が逢瀬を楽しみつつ、利家と密談できる場が欲しかったということでしょう。いっぽう利家にとって、娘を差し出すことは家の栄達に繋がりました。亡き柴田勝家に代わって北陸の経営を任され、五大老として手腕を振るうことになったのですから。
おそらく加賀殿も家のために働こうとしたのでしょう。前田家が押しも押される存在になった時、「側室をやめたい」と主張しています。「これで自分の役割は終わった」と感じていたのかも知れませんね。

第3位:松の丸殿(京極竜子)
淀殿のいとこで、強力なライバルだった!?


松の丸殿こと京極竜子は、絶世の美女として知られています。現在に残る肖像画を見ても、その妖艶な美しさをうかがい知ることができますね。
竜子の母京極マリアは、北近江の浅井氏の娘として生まれていますから、淀殿とはちょうど従姉妹の関係にあたります。しかし血縁者でありながら淀殿とは非常に仲が悪く、醍醐の花見では「どっちが先に秀吉の盃を受けるか?」を争っていたとも。
通説では秀吉の正室北政所と淀殿の仲が悪かったとされていますが、実際に仲が悪かったのは竜子の方でした。なかなか強烈なライバル関係にあったようです。

もともと竜子は若狭の守護武田元明の正室だったのですが、本能寺の変が起こったのち、明智光秀に味方してしまいます。結果的に光秀は敗れ、元明も戦死しました。やがて捕らえられた竜子を秀吉が見初め、そのまま側室にしたのです。

秀吉が亡くなって関ヶ原の戦いが起こると、竜子は出家して尼となりました。それでも豊臣家が滅んだ時には淀殿の侍女を助け、処刑された秀頼の遺児国松の遺体を引き取るなど、優しい一面を持ち合わせていたようです。

松の丸殿こと竜子が秀吉の側室となった背景には、やはり竜子が高貴な女性だった点が見逃せません。実家の京極氏といい、嫁ぎ先の武田氏といい、武士の中でも名族とされる血筋でした。しかも絶世の美女とくれば、秀吉が狙わないはずがありません。しかし竜子が側室になったおかげで、没落していた京極氏は見事に復活するのです。弟の京極高次は夫元明と同じく明智側へ身を投じますが、のちに許されて大名となりました。心無い人々は高次のことを「ほたる大名」と呼んでいたとか。要は妹の尻で出世できたという意味ですね。
その後、関ヶ原で活躍した高次は若狭一国の太守となり、その名を歴史に残しました。

第2位:淀殿(茶々)
やっぱり信長への強い憧れだった?


そして栄えある2位は、側室ナンバーワンとして秀吉が死ぬ間際まで側で支え、秀吉の唯一の子秀頼を生んだ?淀殿です。彼女は浅井長政とお市の方の長女として生まれ、茶々という名前でした。ところが悲しいことに3度の落城を体験しているのです。

1度目は織田信長に小谷(おだに)城を攻められ、浅井家が滅亡した時ですね。この時に父を失いました。そして2度目は、母が柴田勝家に嫁いた直後に起こった賤ヶ岳の戦いです。敗れた勝家は北ノ庄城まで逃れますが、秀吉の追撃は急でした。勝家とともに母お市の方も自害を遂げ、茶々たち三姉妹は秀吉に引き取られます。

やがて美しく成長した茶々を秀吉が見初め、側室として迎え入れました。秀吉は「戦国一の美女」と呼ばれたお市の方に憧れを持っていたため、母親譲りの美貌や魅力はもちろん、気の強さにもベタ惚れだったことでしょう。
また亡き主君信長の姪にあたりますから、信長への憧れもあったはずです。茶々を側室にすることで、自分が信長を超えたことを実感したかったのかも知れません。
そして秀吉は茶々のために新しく城を築きました。これが淀城で、淀殿の名はここから来ています。

秀吉の跡取りとなる秀頼を産んだ淀殿ですが、奇しくも人生の最後に3度目の落城を経験することになりました。これが大坂夏の陣です。天下の大坂城は紅蓮の炎に包まれ、淀殿は秀頼とともに自害を遂げました。

なぜ淀殿が秀吉の側室になることを承諾したのか?その心のうちはわかりませんが、多くの説が唱えられています。滅亡した浅井家の血を残したかった、妹たちのために自らが犠牲になった、秀吉に取り入って実権を握りたかったなどなど…

 

しかし2度の落城を経験し、辛い運命を味わってきた茶々だからこそ、もうあんな目には遭いたくないと思うのは当然のはずでしょう。だったら権力者である秀吉の側室になれば、将来は安心です。おそらくそんな思いがあったのではないでしょうか。
しかし運命の歯車はどこまでもいたずらなもの。その人生の最後に、とんでもない落城劇が待ち構えていたのです。

第1位は……?


今回の第1位は、お市の方です。信長の妹にあたり、「戦国一の美女」と呼ばれた女性でした。そうはいってもお市の方は秀吉の側室ではありませんね。しかし秀吉がお市の方に大きな憧れを抱いていたとする説は非常に根強いのです。
お市の方が浅井長政へ嫁ぐ以前から、たいへんな美女だということは知られていたようです。もちろん秀吉も知らないわけはなく、密かに憧れを持っていたのではないでしょうか。

やがて信長が浅井家の小谷城を攻めた時、秀吉はその先鋒となって攻め寄せました。なんとか自分がお市の方を救い出したいつもりはあったはずです。ところがお市の方と娘たちは、すでに信長の本陣へ送り届けられていたのです。
そして彼女たちは叔父にあたる織田信包に預けられ、遠い存在となってしまいました。当時の秀吉の身分では「お市の方を側室にしたい」なんて言っても信長の怒りを買うだけだったでしょう。

次にチャンスが訪れたのは信長の死後です。すでに主君を討った明智光秀を滅ぼし、有頂天になる秀吉は、その気になればお市の方を迎えることもできたでしょう。ところがライバルの柴田勝家に先を越されてしまうのです。
勝家には正室がいませんし、お市の方の甥にあたる織田信孝のバックアップもあったほど。秀吉がいくら意地になっても無理なものは無理でした。

やがて賤ヶ岳の戦いが起こって柴田勝家が自害すると、お市の方もまた後を追います。もしお市の方が生き残っていれば、やがて秀吉の側室になった可能性はありますが、亡くなったことで永遠に高嶺の花となってしまったのです。
秀吉がおこなった「美女狩り」は、永遠に手にすることができない、お市の方を求めたがゆえの行為だったのかも知れませんね。

秀吉がお市の方に横恋慕していたという史料は見つかっていません。しかしドラマや映画のシーンで登場するように、お市の方を密かに慕っていたという可能性は高いのではないでしょうか。
美女、特に高貴な家柄を持つ女性に強い憧れを持つ秀吉ですから、もしチャンスがあれば、と狙っていたに違いありません。

 

しかしお市の方ほどの聡明な女性が、すでに寧々という妻がいる秀吉の側室になるとは思えませんね。また小谷城といい北ノ庄城といい、いずれも秀吉は憎い敵でした。たとえ生き残ったとしても、秀吉だけは許すまいと考えたはずでしょう。
とはいえ残された娘たちには「浅井の血をしっかりと残すよう」言い含めているあたり、自分が死んだ後のことを託したかった。そんな心情が垣間見えるのです。

秀吉は小男で猿面、貧相で教養がなく、家柄や血筋にも恵まれませんでした。また体力や武勇もなく、およそ戦国武将には似つかわしくない人物でした。
だからこそ自らのコンプレックスを強力なバネにして、低い身分から一代で成り上がってきました。
家柄、血筋、美貌、体型、武力…。秀吉が愛した女性を探ると、自分が抱くコンプレックスの裏返しであることが分かるのです

 

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徳川家康に見初められて側室になった、おもしろい経歴の3人の女性

 

渡邊大門

 

 

株式会社歴史と文化の研究所代表取締役

 

 

徳川家康に見初められて側室になった、おもしろい経歴の3人の女性(渡邊大門) - エキスパート - Yahoo!ニュース 徳川家康。(提供:アフロ)

 今年の大河ドラマ「どうする家康」では、徳川家康と女性との関係がユニークに描かれていた。ドラマに登場していない女性もいるが、うち家康に見初められて側室になった、3人の経歴を取り上げることにしよう。

 

◎於万(1577?~1653)

 於万は、正木頼忠と智光院の娘という説が有力であるが、父母については諸説ある。のちに、於万は、駿河国大平村(静岡県沼津市)で名主を務めていた星谷縫殿右衛門に養育されたと伝わっている。

 

 於万が家康の側室になったのは、三島(静岡県三島市)で家康が入浴しているとき、見初められたからだといわれている。於万はいったん家康の配下にあった江川英長の養女となり、家康の側室に迎えられたという。

 

 家康は於万との間に、頼宣(紀州徳川家初代)、頼房(水戸徳川家初代)という2人の子をもうけた。一説によると、於万は熱烈に日蓮宗を信仰しており、浄土宗信者の家康に宗論をたびたび挑んだという。

 

 家康の死後、於万は法華経一万部読誦の大法要を身延山で開催し、満願の日には七面山に行ったという。於万が亡くなったのは、承応2年(1653)。墓は、本遠寺(山梨県身延町)、妙法華寺(静岡県三島市)にある。

 

*3つ目に取り上げる、於万〔於古茶などとも〕とは別人である。

 

◎茶阿(1559?~1621)

 茶阿の父母は未詳で、家康と結ばれる前は遠江国金谷村の鋳物師の後妻となり、娘を生んでいた。しかし、茶阿の美貌を知った代官は横恋慕し、あろうことか夫の鋳物師を殺害したのである。

 

 茶阿は娘を連れて逃げると、家康のもとを訪れ、夫の仇である代官を討ってほしいと懇願した。家康は代官を処罰すると、そのまま茶阿を側室とし、浜松城に迎えたのである。おそらく家康は、茶阿の美しさに惚れ込んだのだろう。

 

 家康は茶阿との間に、松平忠輝、松平松千代という2人の子をもうけた。しかし、忠輝は五郎八姫(伊達政宗の娘)を妻とし、越後国高田に75万石を与えられたが、兄の秀忠から失態を咎められて失脚した。

 

 弟の松千代は、慶長4年(1599)に6歳で亡くなった。茶阿は有能な人物で、家康から奥向きのことを任されたというが、元和7年(1621)に病没した。墓は、宗慶寺(東京都文京区)にある。

 

◎於古茶(1548~1620)

 於古茶の父は、知立神社(愛知県知立市)の神官の永見貞英だったといわれている。そもそも於古茶は、築山殿(家康の正室)の奥女中を務めていた。

 

 のちに、於古茶は家康の手付けによって妊娠し、側室に迎えられたといわれている。家康は於古茶と間に、次男の秀康をもうけた。しかし、築山殿は於古茶を側室として認めなかったので、浜松城から追い出したといわれている。

 

 浜松城を追放された於古茶は、宇布見村(静岡県浜松市)の中村家で秀康を産んだという。それは、家康配下の本多重次が手配したものだった。

 

 一説によると、正室には側室を決定する権利があり、この場合は築山殿の承認がなかったので、追放されたという。こうしたシステムが普遍的なものなのか、徳川家独自のルールなのか不明である。於古茶が亡くなったのは、元和5年(1619)のことである。

 

*1つ目に取り上げた、もう一人の於万〔養珠院〕とは別人である。

 

※女性の呼び名は一定することが少なく、諸説あることを申し添えます。

 

主要参考文献

原田伴彦「家康の閨閥と女性観」(『徳川家康のすべて』(新人物往来社、1983年

 

 

1967年神奈川県生まれ。千葉県市川市在住。関西学院大学文学部史学科卒業。佛教大学大学院文学研究科博士後期課程修了。博士(文学)。現在、株式会社歴史と文化の研究所代表取締役。大河ドラマ評論家。日本中近世史の研究を行いながら、執筆や講演に従事する。主要著書に『嘉吉の乱 室町幕府を変えた将軍暗殺』ちくま新書、『誤解だらけの徳川家康』幻冬舎新書、 『豊臣五奉行と家康 関ヶ原合戦をめぐる権力闘争』柏書房、『倭寇・人身売買・奴隷の戦国日本史』星海社新書、『関ヶ原合戦全史 1582-1615』草思社、『戦国大名の戦さ事情』柏書房など多数