どんな職業や、

 

どんな芸術家であれ、

 

「わたくしは、こういう方々を、大・大・大・尊敬いたします」

 

 

(はなしはさっそく、飛びますが、TVのような、三文オペラ並みの日本の、

世界一程度の低いくらいの、芸能番組では、まともなコメントは、何に対してであれ、政治に対してであれ、ほぼ、聞けませんが、

まして、欧米などに移住し、ゼロから始めて、特に、”海外で働いて生きている人々” ----に対しての、芸能人のコメントで、

(あああっつ、あの、~~~~名前が出てこない、えええっつ?

Googleしました)

 

そうです、”所さん”

 

が、何かの番組で、約20~25年位前ですか?

「僕は、海外に移住して、頑張っていいる人を尊敬します、だって、僕には絶対にできないからーーーー」って、言っていました)

 

 

海外で、まして、米・英仏などの大都市で、

 

日本より物価が高く、日本の学歴の意味はゼロの様な国々で、

 

生きて、食べて、家族を養っていくだけでも、大変なのに、

 

しかも、西欧で、超・本場のオペラで、

 

日本人歌手なんて、完全に、360度回って、アウェイなのに、

 

もう、”二の句が出ません!”

 

暮らしていっているだけでも、すごいです。

 

本当に、「すごいです」

 

まあ、日本人の強い、ヴァイオリンや、第二ヴァイオリン、などでは、

 

世界の超・一流、や、一流、その都市やローカルなどでの、

 

シンフォニーオーケストラなどでは、

 

絶対といっていいくらい、日本人の方々が、いらっしゃいますが、

 

数年や、15年未満くらい、雇われたからといっても、

 

マイカーを持ち、

 

たまには、適度なレストランで、外食をし、

 

適度な家に住み、

 

結婚し、

 

家族を養い、子供を育て、学校にやり、

 

それを、コンスタントに、ほぼ、隙間を開けずに、

 

30~40年以上、

 

それらを本業として、暮らしていくのは、

 

”欧米大都市や小都市では、奇跡”に近いです。

 

クラシカルバレエでは、過去に数人、や、

 

コンダクターなどでは、

 

少なからず、皆様もご存じのごとく、

 

有名になられた方々もおられますが、

 

オペラで、オペラ歌手で、(この方のように)25年、

 

食べていく、

 

暮らしていく

 

 

信じられません。

 

今後も、頑張って下さい!

 

 

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海外で暮らす〜私はこうして夢を叶えた〜

「一流は目指さない」オペラ座で歌う日本人ソプラノ声楽家

 

 

クーリエ・ジャポン

 

Text and Photographs by Ayaka Ueda

 

まだ海外で活躍する日本人の声楽家が少なかった時代、単身現地に乗り込み、25年以上にわたってキャリアを築いてきた女性がいます。芸術の世界は努力がなかなか報われないと言われます。そんな厳しい業界で、彼女はどうやって自分の居場所を確立したのでしょう。


パリ11区バスティーユ広場前に、一際目立つ近代的な建物がある。フランソワ・ミッテラン大統領(当時)の、「現代的で民衆的な」オペラ座を建てたいという望みで建設された、オペラ座バスティーユだ。建設計画が持ち上がったのは1982年で、「オペラ座」と聞いてたいていの人が思い浮かべるであろう1874年に完成したガルニエ宮とは、対極の外観をなしている。

そんなオペラ座バスティーユで、ソプラノ歌手として活躍する浦田典子(51)が迎えてくれた。楽屋がずらりと並ぶ迷路のような廊下を通り抜けて、光が差し込む広々とした練習室へと案内してくれる。

浦田は開口一番、自分は「オペラ歌手ではなく、職業歌手だ」と説明する。つまり、オペラだけでなく「コンサートもやるしオラトリオ(聖譚曲)も歌う」のだ

 

 

 

 

そんな彼女は、初めから声楽家を目指していたわけではなかった。子供のときからカラオケが好きで、「松田聖子や中森明菜をよく歌っていた」ものの、音楽の世界に入るきっかけとなったのは、小さい頃から習っていたピアノだった。

ところが、高校生のときにピアノの先生から「レベルが達していないから、ピアノで音大に入るのは難しい」ときっぱり告げられる。そこで教育学科を勧められ、その受験のために歌の先生について習ったのが、声楽との出会いとなった。結局、教育学科と声楽科を受験するも、教育学科は不合格。成り行きで、合格した声楽科に進学することに。