「隣人になる」
「善きサマリア人のたとえ」
「善きサマリア人のたとえ」は非常に有名なイエスのたとえ話です。小さな子どもから大人まで、誰もが知っているイエスのたとえ話です。ある日本語聖書にはこのたとえ話は「よきサマリヤ人」というより「サマリア人に親切にされた男のたとえ話」という方が正しい、と書かれていました。また、「善き」という時にはその対立軸である「悪い」ということをわたしたちは想像するかもしれません。イエスのたとえ話は「善悪」を説くものでなく、「神の国」についてのたとえ話であることを思う時、「善き」という言葉に引きずられず、このたとえ話に接する大切さをも思います。
さらに、このお話は、最後の「行って、あなたも同じようにしなさい」というイエスの言葉がクローズアップされて、人に親切にしましょう、とか、困っている人を助けるのがキリスト教の大切な在り方だと理解される傾向があります。もちろん、人に親切にすることや困っている人を助けようとすることは間違っていません。けれども、イエスはこのたとえ話を通して、そのような道徳的、教訓めいたことを伝えようとされたのでしょうか。
イエスを試そうとした律法の専門家は、律法に示されている大切な神の戒め、教えは理解していました。「神を愛し、隣人を愛すること」が何よりも大切だと理解していました。このたとえ話に登場する祭司やレビ人も同様です。律法の教えはよくよく理解していたがゆえに、強盗に襲われて倒れている人は汚れた存在としてうけとめ、その人に近づくことも触れることもしなかったのです。それは律法に準じた彼らの行動でした。けれども、律法に準じる必要のないサマリヤ人は、傷ついて倒れている人を見つけて、「憐れに思い」「近づいて」「その傷に触れ」介抱したのでした。「憐れに思う」と訳されている言葉は、「共に苦しむ」という意味をもちます。このサマリヤ人は、傷ついた人を見て自分自身の心が痛んだ、その傷みゆえに、相手が誰であろうと手を差し伸べずにはいられなかったのではないでしょうか。
「隣人とは誰か」という律法学者たちの問いに、イエスは「誰が隣人になったと思うか」と問い返されます。「隣人になる」とは、何か固定されたものではなく、憐れみをもって関係性をつくりだすものである、ということが示されているのです。そして、その関係性の根本には、神様が先ずわたしたち一人ひとりを憐れみ、共にいてくださるという大前提があります。その憐れみゆえに、わたしたちもまた、相手の痛みに心が突き動かされていく者でありたいのです。そのような営みを通して神の国が実現することを願い祈りたいと思います
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傷ついた、
心に闇を負った、
将来の子供たちや若者たちによる、
”世界中での、復讐テロ事件”
を、推測し、
絨毯のごとく、大きな面による、爆撃
(子供も、赤ちゃん、民間人も標的になる)
は、即、やめなければいけません。
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米議会にユダヤ系デモ隊が侵入 イスラエルとハマスの停戦求め抗議活動 逮捕者も
All Nippon NewsNetwork(ANN)
イスラエルとハマスの停戦を求めて、アメリカ連邦議会に数百人が集まる抗議活動があり、逮捕者も出る事態となりました。 ワシントンで18日、ユダヤ系アメリカ人ら数百人がバイデン政権と上下両院の議員に対しイスラエル軍に停戦を促すよう求めるデモ行進を行い、その後、連邦議会の議事堂に入ると座り込みを始めました。 参加者は「ユダヤ人は今すぐ停戦せよ」などと書かれた黒いTシャツを着て、横断幕を掲げたり歌を歌うなどして停戦を訴えました。 議事堂内での抗議活動は禁止されているため、複数の参加者が逮捕されたということです。
テレビ朝日
米議会にユダヤ系デモ隊が侵入 イスラエルとハマスの停戦求め抗議活動 逮捕者も (テレビ朝日系(ANN)) - Yahoo!ニュース