日本の95%の、主要TV局は、”腐敗”しております

 

今後、一般国民が、

 

どのように信じて、「通常のニュース」を、

 

真に受けることができるのでしょうか?

 

 

YouTube

 

や、

 

SNS

 

や、その他のネットのニュースで、

 

日本や、世界の動向をうかがうしかありません。

 

 

 

 

 

=====================================

 

ジャニーズ性加害問題の本質はテレビ局の堕落 「視聴者がそういう番組を欲しているから」の言い訳はもはや通用しない

Yahoo!ニュース オリジナル THE PAGE

記者会見したジャニーズ事務所の東山紀之氏

 

 

 

 

 2019年に死去したジャニーズ事務所の創業者で元社長のジャニー喜多川氏による性加害問題は、企業がジャニーズタレントのCM起用をとりやめるなど、いまだ収束する気配が見えません。  建築家で、文化論に関する多数の著書で知られる名古屋工業大学名誉教授・若山滋氏は、「問題の本質はテレビ局の文化的堕落にあるのではないか」と指摘します。若山氏が独自の視点で語ります。

 

 

 

 

「司法の言葉」の衝撃

「外部専門家による再発防止特別チーム」の会見。3委員のハッキリした言明には、ある種の覚悟が感じられた。

 

 

 

 

 ジャニーズ事務所の問題を巡って、「外部専門家による再発防止特別チーム」が公表した調査報告書の内容は、そうとうに踏み込んだものであった。このような、特に当事者側が設置した検証組織の結論は、忖度を含んだ玉虫色に落ち着きがちだが、今回、前検事総長の林真琴弁護士を中心とした3委員のハッキリした言明には、ある種の覚悟が感じられた。  うすうす気づいていたことが具体的な言葉になる衝撃である。性的な(それも正常ではない)事件を赤裸々に語る「司法の言葉」の衝撃である。劇場からいきなり法廷につれていかれたような緊張を覚えた。  中でも意味深く思われたのは「マスメディアの沈黙」の責任に触れたことだ。むしろ問題の本質はそこにあるのではないか。このところ日本のテレビ(特に地上波)は、アイドルとお笑いタレントが出ずっぱりであった。  その後、ジャニーズ事務所は新体制を発表して謝罪会見を開いたが、批判がおさまるどころか、スポンサーを降りる企業が続出している。本来利益を追求する私企業が社会性を重視し、本来公共の電波を使って社会の木鐸をもって任ずべき報道機関が「視聴率=広告収入」を追求することにかたよった番組編成を行なっているのだ。  ここでジャニー喜多川という人物の所業はさておき、芸能とメディアの関係を、文化論的に考えなおしてみたい。

 

 

 

 

蔑みのまなざしと憧れのまなざし

記者会見に臨んだ藤島ジュリー景子氏

 

 

 

 

 これまでも人気芸能人のバックにいる人物はたびたび話題になった。美空ひばりのバックには有名な任侠団体の3代目が、ピンク・レディーのバックには大物総会屋がいたという。最近話題になった猿之助事件には、歌舞伎界の淵源たる「能」の祖ともいうべき世阿弥とそのパトロンの足利義満との同性愛的な関係を思わざるをえなかった。  芸能は興行でもある。華々しい表舞台の裏で、非日常的な世界をとりしきる力が必要だ。疑似恋愛的な部分を含めて人を惹きつける若い芸能者の魅力を売買する仕事は一種の裏稼業であった。つまり、テレビ局が、報道者としての魂を、あるいは文化創造者としての魂を失えば、その瞬間に、裏稼業的な興行者へと堕するのだ。  かつて芸能者は「河原者」と呼ばれた。サーカスや小屋掛けの見世物など、芸能者は大衆の好奇のまなざしに身を晒すものであり、社会的にも蔑視される存在であった。しかしその「蔑み」の視線の先にある人を惹きつける力は「憧れ」の視線に転ずる。古来、芸能は神に捧げる神事でもあり、この世界において「聖と賎」は表裏一体なのだ。  古代中世の権力者は、芸能者を自分の館に呼び入れて愛玩する。白拍子(しらびょうし)や同朋衆(どうぼうしゅう)といったもので、いわゆる「座敷芸」となって、「芸者」というホステス(本来、サロンを主催する女性の意味)のような職種を生み、今日のクラブやスナックの文化にまでつながっている。  近世、「舞台と客席」が制度化され(それまでは出す方の気分によっていた金銭が、受ける方の設定する入場料に変化する)、河原や大道で見下げられた芸能者は、客席から見上げられる存在となり、蔑みのまなざしは薄れ、憧れのまなざしが強くなる。日本なら近松門左衛門、ヨーロッパならシェイクスピアの出現ぐらいからであろうか。市民社会の成立とともに芸能者は人々の視線を集める星(スター)になっていくのだ。

 

 

(参照・『アイドルはどこから-日本文化の深層をえぐる』篠田正浩・若山滋共著・現代書館2014年刊

 

 

 

アイドルと人気資本主義

 

 近代、映画という「舞台の複製」が出現する。芸能者の魅力が大量生産の対象となって銀幕のスターとなり、裏稼業的な興行者は映画産業となる。ハリウッドには全米の若い女性がおしかけ、そこで力をもつ人々はその性的な魅力と莫大な利益をむさぼった。  戦後、娯楽の対象が映画からテレビに移れば、芸能者にも変化が起きる。老若男女が集うお茶の間では、突出した魅力をもつスターより、誰からも可愛がられる人気者としてのアイドルが主役となる。特に、家社会的な同調性を重視する日本では、歌や踊りや演技といった本来の芸よりも、アイドル(偶像)であることが重宝される。  「グループ・サウンズ」とは、ビートルズ以後、人気となった男性アイドルの歌手グループを意味し、「スター誕生」とは、アイドルの卵を釣り上げる装置としての番組であった。そしてジャニーズの時代がやってくる。憧れのまなざしがテレビを中心とするメディアによって増幅される。企業は、製品の魅力をアイドルの魅力に重ねようとする。  戦後日本の経済躍進を支えたのは、家電、自動車、カメラ、時計など、ものづくりであり、その性能の高さであった。しかし情報化社会となって「製品の性能」より「商品のイメージ(人気)」が重視される。製品資本主義から人気資本主義へと、資本主義の質が変わったのだ。  マンガやアニメやゲームのキャラクターも、ミッキーマウスやスヌーピーやキティちゃんも、近年雨後の筍のごとく出現したゆるキャラも、羽生結弦や大谷翔平のようなスポーツ選手も、アイドルとして、人気資本主義の巨大なマーケットに組み込まれる。

「気概」が感じられないテレビ番組

再発防止特別チームの座長を務めた前検事総長の林真琴弁護士

 

 

 

 

 

 かつてテレビの世界にも、戦後日本に登場した新しい文化を担おうとする意欲ある人々がいた。青島幸男、永六輔、大橋巨泉、テレビマンユニオンのメンバーなど。歌手も、俳優も、タレントも、プロデューサーも、ディレクターも、作曲家も、作詞家も、振付師も、映画や舞台に対抗して新しい文化をつくろうとする気概があった。しかしバブル時代以降であろうか、テレビ文化創成期の人々が去るとともに、ただ軽薄な視聴率稼ぎの路線が敷かれ、番組から文化的な創造力が薄らいでいく。  また民放の報道番組のメインキャスターには、元NHKのアナウンサーや、意識の高い新聞記者や雑誌編集者など、それなりの知識と見識のあるジャーナリストが起用された。しかしある時期から、ただ早口で喋るだけのタレントが起用され、報道から真摯な批判性が薄らいでいく。  そして今は、どのチャンネルをまわしてもアイドルとお笑い芸人ばかりで、東京のジャニーズ事務所と、大阪のこれも一時問題になった某お笑いプロダクションが大きな力をもつにいたる。  テレビ番組に、報道者としての、あるいは文化創造者としての気概が感じられなくなったのだ。放送法で定められた番組審議会も形骸化し、逆に権力が介入することもあり、自浄能力を失ったような気がする。テレビの、特に地上波の番組は社会の隅々にまで暗黙のコンセンサスを染み込ませるものだ。「静かなる洗脳」といってもいい。公共の電波を使う放送事業者としての矜持を失った安易な姿勢が、日本社会全体に広がったのではないか。幕末明治以来、日本の若者は、良くも悪くも常に思想的批判的行動のエネルギーをもっていたが、今はすっかり影をひそめている。  そう考えれば、ジャニーズ事件の本質は、スターとしてのアイドルを夢見る若者の夢を(たとえそれが幻影であっても)実現する組織として存在する芸能プロダクションよりも、むしろ、本来社会の木鐸をもって任ずべきテレビ局の文化的堕落にあるのではないか。「視聴者(国民)がそういう番組を欲しているからだ」という主張もあるに違いない。しかしオピニオンを導くという点において、教育や活字メディアをしのぐほどの影響力をもつにいたった今日、その言い訳は通用しないだろう。  今後、林弁護士を中心として、テレビ放送という社会的存在の本来のあり方を追求する特別チームを設置したらどうか。もちろん、政治権力が介入することによってファシズムの道具となることは避けなくてはならない。必要なのは上からの道徳や制御よりむしろ自発的「気概」である。この国の復活は、そのあたり(精神的根底)から始まらなくてはならないように思える

 

 

ジャニーズ性加害問題の本質はテレビ局の堕落 「視聴者がそういう番組を欲しているから」の言い訳はもはや通用しない(Yahoo!ニュース オリジナル THE PAGE)