辮髪 - Wikipedia

 

 

 

名称

日本語ではしばしば新字体の「弁髪」を使われており、現代日本の環境においてはどちらの字を書いても正しい。中国語でも辮髪と書いてるが、

 

 

最も正しい漢字表記は「髠髪(こんぱつ)」とされ、

 

 

読み方は「クンファ」にしている。

定義

満洲人清王朝から始まった習慣として知られているが、万里の長城以北の諸民族はそれぞれ頭髪を剃り上げる風習をもっていた。契丹人は頭頂部のみを残し、モンゴル人は前頭と左右両側頭をとどめて左右両耳の後方に2本の編み込みを垂らしていた[1]。そのスタイルは民族や時代の違いにより様々で、テュルク系諸族にも共通してみられる風習でもあった。辮髪とはこれらの習慣を一括して用いる言葉である。

モンゴル族が側頭部を残したのに対し、満州族は後頭部のみに頭髪をとどめ、これを1本に編んで後方に垂らした[1]。満洲人の辮髪は、西洋人からはピッグ・テイル( 【参考】pig tailという髪型についてen:Pigtail)とよばれた[2]。 満洲族の前身を形成する女真もまた満族と同様の辮髪だったと考えられる[1]

辮髪強制のはじまり[編集]

12世紀に女真族のが、漢族王朝を攻め、徽宗欽宗をはじめ帝室の人びとや朝廷の重臣らを捕らえて本拠に引き揚げ、また、新帝高宗を攻めて江南の地に追いやって中国北半を領有した際、領内の漢人に女真人固有の髡髪を強制したことは、北方民族による辮髪強制の先例とみられている[1]。モンゴル族による元朝支配を受けた漢民族にも辮髪がみられたが、とくに徹底して強制したのは満洲人王朝(大清帝国)の場合であった[1]

清朝の辮髪強制[編集]

1644年李自成の乱の乱では滅亡し、それに代わって清(後金)が長城の南に進入した。北京入城の直後、第3代皇帝順治帝の摂政ドルゴンは、清に服属するか逆らうかを区別するため、漢人に対しても「薙髪令」を発令し、これを満洲人に対する服従の証拠とした[3][4]。このときは、中華思想の根強い抵抗のため強制できず撤回したが、翌1645年、「薙髪令」をあらためて発令し、辮髪の強制を断行した[3]。この際、辮髪を拒否する者には死刑を以て臨み、「頭を留めんとすれば髪を留めず、髪を留めんとすれば頭を留めず」といわれたほどの徹底的強制をおこなった[3][4]儒教の伝統的な考えでは、毛髪を含む身体を傷付けることは「不孝」とされ、タブーであったため、抵抗する者も多かったが、清朝は辮髪を行った者に対しては「髪を切って我に従うものには、すべてもとどおり安堵する」として従来の生活や慣習が行えることを保証し、科挙の受験資格もあたえた[4]。清朝は、漢族が辮髪を死ぬほど嫌い抜いていることを承知したうえで、あえて「薙髪令」を再発令したのであり、ある意味、清朝の敵味方の識別のためには、これ以上効果的な策はなかった[4]。ただし、漢民族のなかにはこれを「夷狄の風習」と嫌って自死したり、僧侶や道士になった者も多かったという[2]

やがて、清朝支配の安定とともに辮髪が普及していき[3]19世紀には辮髪は完全に普及し「中国的な風習」と見なされるようになった。満洲人の辮髪は頭頂部の毛髪を残して剃り上げるが、漢人の辮髪は後頭部を残して剃りあげた[5]。満洲族の辮髪はしだいに漢族の辮髪に近づいていった[4]。明滅亡後も明朝の衣冠制度を守っていた李氏朝鮮朝鮮燕行使は、清朝に服属していた一方で清国人の髪型を羨むことはなく、これを夷狄視して侮蔑するまでになった[6]

1851年に起こった太平天国の乱において、太平天国軍は清朝への抵抗のため辮髪スタイルを停止したが、清の朝廷は洪秀全を首領として天主教を奉じて反乱を起こした人々を「長髪賊」と呼んだ[7]近代に入ると「反清」を標榜する証として辮髪を切る者も増えた。特に欧米に留学した清国人は生活上のこともあって断髪する者もあった。米国留学中に辮髪を切った学生の例では、官費留学制度から外されたり、強制帰国されたりしている[8]。そのため、断髪した革命派の学生や留学先で辮髪を切ったものの清朝に反抗する意志までない者の帰国時には、取り締まりの逃れるために辮髪のかつらを付けることがあり、魯迅も一時帰国時に使用していたことが知られる[9]

清朝にあっては、辛亥革命の起こった1911年まで「薙髪令」は続き、僧になり出家した者と禿頭(とくとう)以外でこの辮髪にしない者は死刑を含む処罰された。清朝滅亡後、中華民国の発布した「断髪令」によって辮髪の風習は廃れたが[1]、農村部では一部で1950年代まで辮髪をする男性もいた[注釈 1]。実際の日常では、体を大きく動かす動作の際に辮髪が地面に触れて汚れたり邪魔にならぬよう、縄状の毛髪部分を衣服の襟首に巻き付けたり、鉢巻の様に頭に巻くことが多かったという。

辮子軍[編集]

張勲復辟」も参照

袁世凱に信任され、1913年第二革命でも袁を支援して南京を奪還した軍閥の指導者張勲は、黎元洪支援の名目で北京入城を果たした1917年宣統帝溥儀の復辟を画策した(張勲復辟[10]段祺瑞らの反撃でこの動きは失敗に帰したが、張勲軍は辮髪をトレードマークとしてこれを誇りとし、「辮子軍」と称された

 

Wiki

 

 

 

=========================================================================

 

 

アップル掲載の写真が中国で大炎上 「中国人を侮辱した」と根拠のない猛批判

The News Lens Japan

アップル社が企業紹介の一環としてウェブサイトに掲載した1枚の写真が、中国のネット上で炎上している。問題になったのは同社スタッフの顔写真で、その髪型に反発した微博(ウェイボー)ユーザーらが、なんの根拠もなく「中国人を侮辱している」などと怒りを爆発させた。

カスタマーサービス部門に勤務するアップルウォッチの担当者

 

 

 

 

 

米オンラインニュース「インサイダー」によると、アップル社がカスタマーサービス部門に勤務するアップルウォッチ担当者の写真を同社サイトに掲載したところ、17日時点でこの写真に対する批判が微博(ウェイボー)で急速に拡散。これを問題視したポストの閲覧回数は1億8000万回に達し、注目ワードのトップに浮上した。

写真で紹介されたスタッフは、長い髪を1本の三つ編みにしており、微博ユーザーらは辮髪(べんぱつ)に似ているとして、「中国人に対する西側の固定観念を植え付けるため、この髪型のスタッフを意図的に取り上げた」という根拠のない主張でアップル社を非難。20世紀初頭に英作家サックス・ローマーが創作した悪役「フー・マンチュー」のイメージと重なると主張している。

フー・マンチューは、「西欧支配の世界を破壊することをもくろみ、陰謀をめぐらす悪人」との設定で、辮髪に垂れた長く細いひげ、吊り目をした架空の中国人。戦前から多くの映画に登場し、1980年には英俳優ピーター・セラーズがフー・マンチューを演じた映画「天才悪魔フー・マンチュー」でも知られる。中国国営メディアはこれまでも、フー・マンチューの容姿が「深刻な人種差別」だと非難してきた。

インサイダーによると、あるブロガーは「アップル社の人たちはあまりにも愚かで、意図的に中国を貶めたり、辮髪の中国人悪役を描いたハリウッド映画を見たりして、それが中国人のイメージだと思い込んでいるからなのか、それは分からない」と書いた。

上海のメディア会社ペア・ビデオは、問題の写真を見た中国人ネットユーザーが不快に感じたかどうかを調査したところ、19日時点で、少なくとも12万3000人が「はい」と答え、5万8000人が「写真に何の問題もない」と回答した

 

 

 

ネット上の怒りの多くは、この写真がアップル社の中国向けサイトにのみ掲載されているという誤解から生じているとインサイダーは推測。中国共産党系のタブロイド紙・環球時報は、指摘されたスタッフが勤務するのは中国ではなく、米カリフォルニア州だとし、中国国営放送CGTNの米国特派員も、このスタッフは中国人ではなくアメリカ先住民だと結論付けた。

それでも、微博では批判者を擁護する者もいる。あるブロガーは、「中国人の反応に大きな問題があるとは思わない」とした上で、「アップルはおそらく中国を侮辱するつもりはなかったが、中国人のタブーに対し無神経だっただけだ」とつづった。

そもそも辮髪とは、漢民族を支配した満州族が建国した中国最後の統一王朝・清の時代、男性の一般的な髪型だった。満州人の伝統的な髪型で、頭髪の一部を残して剃りあげ、残りの毛髪を伸ばして三つ編みにし、後ろに垂らしたもの。これを漢人に強制したことから、現代中国では〝屈辱の歴史〟として受け取られている。

今回のように「中国を侮辱した」とみなされた西側企業は過去にもあった。 イタリアの高級ファッションブランド「ドルチェ&ガッバーナ」は、創業者が中国人に対し〝人種差別主義者〟だと非難され、2018年に中国でのオンラインストアから撤退し、上海でのショーも中止した。

21年には、ディオールの中国人写真家・陳漫(チェン・マン)氏が、目の小さな女性をフューチャーした写真で中国のSNSユーザーを激怒させ、謝罪に追い込まれた。中国系カナダ人俳優シム・リウは21年、「共産主義・中国の初期、人民は飢えていた」と発言したとして、中国のSNSで猛批判を浴びている。 アップルは今のところ反応していない。

TNL JP編集部