井上尚弥はどこまで強くなるのか? 頭脳戦でも“モンスター”な男がフルトン戦後に語った“鮮烈KOへの布石”「ボディへの左ジャブは…」
posted2023/07/26

7月25日、スーパーバンタム級転向初戦で2団体王者スティーブン・フルトンを沈めた井上尚弥。8回TKO勝ちの裏には緻密な戦略があった
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渋谷淳Jun Shibuya
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Hiroaki Yamaguchi超えた――。7月25日、東京・有明アリーナで行われたWBC・WBO世界スーパーバンタム級タイトルマッチで、挑戦者の井上尚弥(大橋)が王者のスティーブン・フルトン(米)に8回1分14秒TKO勝ち。階級アップ初戦で2団体のベルトを獲得した。「階級の壁は感じなかった」。そう言い切った“モンスター”の珠玉のファイトを振り返る。
井上尚弥がフルトンに発した“警告”とは?
スーパーバンタム級で最強との呼び声高いフルトンも、井上の敵ではなかった。戦前の予想は井上有利。ひょっとすると序盤でKOしてしまうのではないか。逆に「階級の壁」にぶつかり思わぬ苦戦を強いられるのではないか。さまざまな予想がある中で、井上は周囲の声に惑わされず、計算し尽くされた緻密なボクシングを展開した。
「試合のポイントは距離感です。どちらの距離で戦うかは重要視していた。身長とリーチではフルトンが有利ですけど、その中で距離感をつかむ、ペースをつかむ、ということは徹底しようと練習を重ねてきました」
フルトン対策は試合開始と同時に機能した。構えは「フルトンを研究する中で使えると思った」という左ガードを下げたL字ガードで、上体はいつもより気持ち起こしてアップライト気味。左ガードを下げれば右をもらう危険性が高まるが、そこは十分に意識してバックステップを使った。ファーストコンタクトはこの試合のキーとなるボディへの左ジャブだった。
試合開始直後に井上尚弥が放ったボディへの左ジャブ。このパンチが“布石”になった ©Hiroaki Yamaguchi
フルトンはスタンスを広く取り、体を横に向けるいつも通りのスタイル。井上の強打への警戒心がありありと見て取れる。得意のジャブは空を切り、やがて打つ数も減った。コーナー下で戦況を見守る父・井上真吾トレーナーがうなずいた。
「1ラウンド目のリードの差し合いでびっくりするくらいフルトンのジャブが届いてなくて、逆に尚のリードが当たっていたので、そこで安心して見ていられた。尚が距離とステップでフルトンのリードを外していたので良かったと思った」
もう一つ、初回に早くも発生したクリンチでの対応が意欲的だった。フルトンはクリンチがうまい。体格で勝るフルトンに腕を絡められたら思うような攻撃ができず、いたずらに体力も消耗する。「不安要素」の一つに挙げられたクリンチ際で井上は素早く反応、ボディに小さくも荒々しいパンチを入れてフルトンに警告を発した。「クリンチは通用しない」と印象づけるには十分な効果があった
試合の流れを引き寄せた“モンスターの戦略”
理想的なスタートを切った井上はジャブの差し合いから鋭い踏み込みで右の強打を王者に打ち込んでいった。これはフルトンも十分に警戒しているからバックステップとブロッキングで防ぐ。特に右のクリーンヒットを許さなかったが、これで井上が慌てることはなかった
「前半の1、2、3、4(ラウンド)は取らせない。そこからフルトンが出てこないといけない展開を作りたかった」
チャンピオンはディフェンスがうまい。そう簡単にクリーンヒットが奪えないことを承知の上で、先手を取り、ガードの上からでもパンチを打ち込む。ポイントを失ったと感じたフルトンは案の定、3回にジャブを増やし、4回はさらに重心を前のめりにしてペースを変えようと試みた。すべてはチャレンジャーの思惑通りだった。
ガードの上からフルトンに強打を打ち込む井上尚弥 ©Hiroaki Yamaguchi
前がかりになってきたフルトンに、井上はしっかり対応していく。無理に攻めず、できるだけリング中央で戦い、ジャブの差し合いを攻防の基本に据え続けた。「プレスをかけすぎるとフルトンに脚を使われるので、かけすぎないようにした」。絶妙な“さじ加減”で試合の流れを引き寄せていった。
ジャブを上下に散らし、ガードの上から右を打ち込み、守ってはバックステップを巧みに使った。反応のいいフルトンはリターンを狙うのだが、井上の出入りのスピードがそれを上回る。3回に鼻血を出したチャンピオンは必死だ。井上の右を封じながら、5回には右をクリーンヒット。7回にもジャブ、右フックを打ち込んで、初めてジャッジ3人の支持を集めた。
しかし、試合の主導権を握っているのはあくまでモンスターだった。「少しフルトンのペースが落ちてきたので圧力を強めた」という8回にクライマックスは訪れる。フィニッシュへの布石はボディへのジャブだった。
「ボディへの左ジャブは突破口として練習していた。前半はそのジャブを単発で使いながら、フルトンが落ちてきたところで右ストレートにつなげようと考えていたので、その一瞬の隙をついた」
このラウンド、井上はボディジャブ、ボディジャブと2発入れ、さらに顔面へのジャブを突き刺す。そして次のシーンで、左ジャブをボディに突き刺すと同時に、間髪を入れずに右ストレートを振り抜いた。これをアゴにもらったフルトンの体がグラリと揺れ、グローブをキャンバスにつきかけながら体勢を立て直そうとする。すかさず井上が左フックで追撃するとフルトンがダウン。有明アリーナはバケツをひっくり返したような大騒ぎだ。
8回、強烈な右ストレートでアゴを打ち抜かれ、ダラリと両腕を垂らすフルトン ©Hiroaki Yamaguchi
辛うじて立ち上がったフルトンだが、このチャンスを井上が逃すはずはない。コーナーに釘付けにしてラッシュすると、主審がTKOを宣告するのとフルトンが崩れ落ちるのがほぼ同時だった。試合前、“クール・ボーイ”の異名を持つフルトンは「頭を使って戦う」とインテリジェンスによる勝利をアピールしていたが、皮肉なことに、その頭脳戦でクール・ボーイを圧倒したのがモンスターだったのである。
井上尚弥はいったいどこまで強くなるのか
試合後、興奮冷めやらぬ記者会見で、井上は胸を張って次のように話した。
「スーパーバンタム級の壁を感じずに戦うことができた。しかもフルトンはスーパーバンタム級でそこそこ大柄な選手だと思うので、スーパーバンタム級でやれると証明できたと思う。試合当日の計量が60.1kgで、バンタム級のとき(59.5kg)とさほど変わらない。それでも、スピードだったり、(パンチの)体重の乗りだったり、ステップワークしているときの安定感はまったく違った、1.8kgのプラスは自分の中でいい方向に働いた」
この日はWBA・IBF同級王者のマーロン・タパレス(フィリピン)がリングサイドで試合を見守り、試合後にリングに上がって「ぜひ井上選手と対戦したい」と統一戦をアピールした。プロモーターの大橋秀行会長も「年内に実現できるように動く」と明言。あっという間に4団体統一戦の流れができた。
階級アップ初戦で不安視された要素をすべて克服し、2団体統一チャンピオンに完勝を収め、日本人選手2人目の4階級制覇を成し遂げた。これだけでも驚きだが、この日の井上にはまだ余裕があり、実力のすべてを出し切ったようには感じられなかった。いったいどこまで強くなるというのか。ため息さえ出た一戦だった