「生活保護」からハーバード大へ、貧しくても家庭は「キラキラ」だったパックン…「ぶっちゃけ勉強できた」

 

読売新聞オンライン

 アメリカ人だけど日本でお笑い芸人として活躍するパックン(51)が語る「わたしの中高生時代」。超名門のハーバード大学卒業という経歴から、さぞ裕福でキラキラな家庭で育ったのだろうと思いきや――。(読売中高生新聞編集室)

 

 

  【写真】勉強もできて母親思い…17歳の頃のパックン

 

 

 

 

「貧乏人だ」と見つめられた幼少期

アメリカ人だけど日本でお笑い芸人として活躍するパックン(2月24日、読売新聞東京本社で)=今利幸撮影

 

 

 

 

 

 「いや、貧乏で苦労もしたけど、キラキラはしてましたよ。どんなにつらいとき、大変なときでも、与えられた境遇のなかで、いつも自分のベストを尽くしてきたから。よい意味で、『開き直っていた』と言ってもいいかもしれないね。

 まぁ、家庭で言うと、僕が7歳のときに両親が離婚して、主に母と暮らした記憶しかありません。最初は姉もいましたが、色々な事情で父に引き取られました。すると、父からの養育費の支払いも止まってしまい…。母の仕事はなかなか安定せず、経済的にますます苦しくなりました」

 そんなパックン親子が、しばらく頼らざるを得なかったのが、アメリカ版の生活保護ともいえる食料品購入券「フードスタンプ」だ。

 「大嫌いな制度です。貧乏人をバカにしていると感じるから。今はわかりませんが、当時のフードスタンプは使うとき、お釣りがもらえませんでした。貧乏人に現金を持たせると、薬物や酒、ギャンブルに使ってしまうという考え方が根底にあるからです。

 使い方も面倒。レジ係は大抵、『店長、どうすればいいの?』と声を張り上げます。すると、周りの客が『あ、貧乏人だ』という目でこちらを見始める…。もちろん、支えられている身としては感謝しなきゃとも思います。でも、わざわざ『貧乏扱い』しなくてもいいじゃないか。

 一番悲しかったのは、フードスタンプでドッグフードが買えなかったとき。母は恥ずかしそうな顔をしていました。貧乏人が犬を飼うなんてぜいたくだ、という決めつけで、屈辱的でした」

 明日の食事にも困るというほどではないが、「相対的貧困家庭だった」という中高生時代。お金がなくて諦めたことも多かったという。

 「最も記憶に残っているのは、アメリカンフットボールのジュニアチームに入るのを諦めたこと。11歳か12歳のときでした。アメリカではアメフトは花形スポーツ。でも、家計を考えると、母親にユニホームや防具を買ってほしいとは言えない

 

 

 

 

それに、アメフトでは父親が練習や試合に関わるのが当たり前なのですが、うちには、その父親もいませんでした。

 すごく悔しかったですよ。でも、できないものは、しょうがない。逆転の発想で、あまり道具にお金がかからない体操や高飛び込み、ビーチバレーをやろうと考えました。すると、マイナースポーツで選手が少ない分、新聞に取り上げられるほど活躍できた。貧乏でも前向きに頑張れば成功できる。そんな原体験になりました」

10歳で始めた新聞配達

最初の頃は、自転車に新聞をどっさり積んでいた(本人提供)

 とはいえ、世帯収入は平均を下回っていた。家計を助けるため、パックンは10歳から新聞配達をしていたという。

10歳から新聞配達を始めた(本人提供)

 

 

 「確か10歳になった翌日から始めたんじゃないかな。

 

最初は自転車で、約40軒からスタートしました。

毎朝5時頃に起き、営業所から届いた新聞に折り込み広告を挟んで、雨の日はビニール袋に入れて配りました。1時間ほどで配り終え、そのあと小学校に通っていました。

 配達軒数をどんどん増やし、

 

中学時代は125軒、

 

高校時代は最大440軒

くらい配っていました。

 

アメリカは広くて、車がないと生活できないので、ほとんどの人が16歳で運転免許を取ります。僕も16歳で取って、16万円の超安い中古車を買いました。それ以降は、毎朝3時半頃に起き、近所は自転車、ほかは車で配り、高校の廊下で仮眠してから授業を受けていました」

 

 

 それでも、放課後はスポーツや演劇、コーラスといった部活に励んでいたというパックン。すさまじい忙しさに思えるが、どうやって学業と両立させていたのか。

 

 

 

グリークラブのアジアツアーで初めて来日した(本人提供)

 

 

 

 「ぶっちゃけ、僕は勉強ができました! もしかしたら、家にマトモに映るテレビがなかったおかげかもしれない。テレビを見るかわりに、早くから読書の面白さに気づいて、本をたくさん読んでいたんです。そのおかげで、語彙(ごい)力や基礎知識が自然に養われたんだと思います。

 

 

 もちろん、ちゃんと勉強もしてましたよ。母は出版社で校閲の仕事をした経験があったので、僕の論文の添削もしてくれたんです。テストでいい点を取ると母が喜んでくれる。大きなモチベーションになりました

 

 

 

 

「母の助けになっている」という思いを糧に、多忙な中高生時代を駆け抜けていたパックン。しかし、ある日、

 

そんな彼を悲劇が襲う。

 

 

 「17歳の夏、母が交通事故に遭い、顔と両膝、背中を大けがして入院したんです。実は、そのとき、母は僕の代わりに新聞配達をしていました。

 

 

 僕は数学コンクールで準優勝し、

数学キャンプに参加できることになって、

母に2週間代わりをお願いしていたんです。

連絡を受けて、すぐさま車を飛ばしてコロラド州に戻りましたが、ものすごい罪悪感に襲われました。もちろん、母は僕のせいだなんて、少しも思ってないんですが…。『もっとしっかり母を守ってあげなくては』。そんな思いをさらに強くしたできごとでした」

「倍率20倍」を突破

高校卒業の日(本人提供)

 

 

 

 高校卒業まで続けた新聞配達。

 

大変なことも多かったが、ハーバード大に入れたのは、その経験があったからこそだと感じているそうだ。

 

 

 「高校の最終学年でハーバード大に願書を出した後、コロラド州内で担当者の面接を受けました。新聞配達について、いろいろ聞かれたのを覚えています。アメリカの大学は総合評価。勉強だけできてもダメで、課外活動や人間性まで合否の判断材料にされます。いくつかの大学に合格しましたが、ハーバード大だけ『補欠合格』で宙に浮いた状態。

 

当時の倍率で20倍という狭き門ですから、入学を許可されたときは大喜びしました。後になって、面接官の強い推薦があったことを知らされました。きっと、新聞配達を8年間も休まず続けた経験を評価してくれたのだと思っています」

 

 

 少年時代の逆境をはねのけ、超名門のハーバード大学に進んだパックン。だが、そこで生まれて初めて挫折を味わうことになる。

 

 

大学は寮生活だった。1年の時のルームメートとイギリスのロックバンド「ザ・フー」をまねして(左から3人目がパックン、本人提供)

 

 

 

 「まず実力試験があり、その結果、論文の補講に通わされました。高校時代はシナリオコンテストで入賞するくらい文章力には自信があったのに…。しかも、同じ補講を受けている学生が『これ、ホントに大学生の文章!?』と驚くほど素晴らしい論文を見せつけてくるんです。衝撃でした。その上、手本に使われていた論文は、参加していたグリークラブ(合唱団)の同級生が書いたもの。本人からも自慢され、心底悔しかったです

 

 

 

逆に、数学は点数が良かったために、レベルの高すぎる講義を取らされました。イスラエル人の先生の英語も聞き取りにくく、人生で初めて『これは無理』と感じました。僕は全国上位1%の成績を取り、首席で高校を卒業したんです。でも、ハーバードはそんな学生ばかりでした」

 「上には上がいる」。そう学んだパックンは“取捨選択”に取り組んだ。自分にできることと、できないことを見つめ直したのだ。

大学の卒業式では卒業証書を受け取る前に喜びのジャンプを決めた(中央がパックン、本人提供)

 

 

 「中高生時代は何でも一番じゃないと気が済まなかったし、頑張ればそれも可能でした。でも、ハーバードでは、そうはいきません。数学の講義はレベルを変更できなかったのであきらめて、2年で専攻を決める際、文系を選びました。

 僕は小さい頃から異文化が好きで、各国の神話や伝説などにも興味があったので、先輩のすすめもあり『比較宗教学』を専攻しました。同学年約1600人のうち、この専攻を選んだのはたったの8人。受講者が少ない分、世界的な先生の指導をみっちり受けられ、卒業もしやすい。同じハーバード大卒の経歴ならコスパがいいでしょ(笑)。

 

 

 でも、論文の補講は頑張りました。最終的には、僕の卒業論文が広く手本として使われるまでになりました」

 卒業後は友人を頼って来日。日本語を学び、自分の興味を追究していった結果、お笑いコンビ「パックンマックン」を結成し、今に至る。ずばり、その突破力はどこから?

 

 

 

パックンマックン初の単独ライブ。今年はコンビ結成から25周年!(1998年秋、本人提供)

 

 

 

 「うーん…僕はやっぱりある意味、恵まれていたんですよね。確かに子どもの頃は貧乏で悔しい思いもしたのですが、僕にはくじけない強さがありました。持って生まれた楽天的な性格もあるかもしれません。新聞配達でも何でも『やめたら終わりだ』と思っていたんです。

 継続することが自信につながり、自信が挑戦につながり、今も好循環が続いています。そうしてこられた最大の理由は、やはり無条件に愛してくれる母がいたから。また、家族や友だち、マックンをはじめ多くの人に支えられました。だから、今はその恩恵をどう社会に還元できるかを考えています」(聞き手・大重真弓

 

 

 

プロフィル

 本名はパトリック・ハーラン。1970年11月14日生まれ、アメリカ・コロラド州出身。1993年にハーバード大学を卒業し、来日。97年3月にマックンこと吉田眞さんとお笑いコンビ「パックンマックン」を結成。NHKのお笑い番組「爆笑オンエアバトル」や語学番組「英語でしゃべらナイト」に出演し、注目を集める。2004年に結婚し、2人の子どもを持つ父でもある

 

「生活保護」からハーバード大へ、貧しくても家庭は「キラキラ」だったパックン…「ぶっちゃけ勉強できた」(読売新聞オンライン) - Yahoo!ニュース