いまだに、覚えておりますが、
今だに、彼女の嫌いなものは、
家で”御法度なものは”
「くさやの干物」
と、
「納豆」
は、千昌夫さんは、家では、食べてはいけなかったそうです。
さんは、
下の写真でも、お分かりのように、
まれにみる、
アメリカや欧州でも、、見かけないほどの薄い、目の色でしたから、
サングラスが、常時、必要ですね!
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千昌夫はバブルで一時、資産2千億円 360億円の離婚訴訟でいくら払ったのか
いまや国際社会のなかでも“ひとり負け”の感が否めない日本経済だが、わずか30年前には未曾有のバブル景気に列島が沸き立っていた。当時、日本の地価の総額はアメリカ全体の4倍ともいわれ、土地・株・カネが飛び交う狂乱のなか、得体の知れないバブル紳士が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)し、数多のスキャンダルが世の中を賑わせた。令和の世とは何もかもがケタ違いな、バブル期を象徴する人々が関わった“事件”を振り返ってみたい。
かつて「歌手活動は重要な経営資源。僕の90%は実業家です」と語った千昌夫(75)は、2千億円もの資産を築いたとされる。前妻との離婚騒動でも、注目が集まったのは彼の財産の行方だった。(本記事は「週刊新潮 別冊〈昭和とバブルの影法師〉2017年8月30日号」に掲載された内容を転載したものです)
離婚は結婚の何倍ものエネルギーを使うといわれるが、千昌夫の場合、普通の人とは比較できないほどの苦労があったに違いない。 1986年8月に浮気が発覚した千とジョーン・シェパードの離婚騒動は、争った資産の金額がケタ外れだったからだ。それまで日本の芸能界における財産分与の最高額は、沢田研二から前夫人への18億円(推定)。 ところが、シェパードは87年6月、米カリフォルニア州の裁判所に360億円の財産分与を求める訴訟を起こしたのである。何ともバブリーな離婚劇に日本人は度胆を抜かれたのだ。 千の代表曲「星影のワルツ」がヒットしたのは67年秋、NHKの紅白歌合戦に初出場したのは68年だ。 彼が所属していた第一プロダクションの社長・岸部清氏が振り返る。 「彼が私の事務所に入った頃は、月給3万円だった。でも、「星影のワルツ」が大ヒットして、給料も年俸制に変え、2千万円にまで上げてやったんだ。今も昔もそうだが、芸能人は一気に大スターになって金に余裕ができると、ハワイやなんかに遊びに行くんだな。千もその一人。初めてのハワイで、可愛い白人のお姉ちゃんをナンパしたそうです。しかし、向こうからJapanese, Chinese, I donʼt likeって断られたんだって」 この体験が、その後の人生に大きな影響を与えたようである。 「彼は岩手の出身で、外国への憧れもあったんだろうけど、それで『何クソ!』って躍起になっちゃってさ。それで外国人の女ばっかり選り好みするようになったんだよ」(同) 千とシェパードは70年6月に出会った。彼女がニューグレンミラーオーケストラの専属歌手として来日した際、千はテレビ番組で初めて共演。すかさず千は拙(つたな)い英語で彼女をお茶に誘った。持ち前の粘り強さで口説き落とし、72年に入籍。それから二人は、CMで共演するなど、おしどり夫婦として有名になったのだ。 その一方、千は「不動産王」としても、その名を知られるようになる。70年、仙台市の郊外に4千万円で5万坪の土地を購入したのを皮切りに、次々に不動産を購入。事業家としての活動を活発化させ、バブル絶頂期には、資産2千億円を持つ「歌う不動産屋」と評された。 ちょうどこの頃始まった離婚騒動は、まさに泥仕合だった。千が広尾の豪邸から出て行くと、ほどなくして、英国人の愛人、アマンダさんの存在と妊娠が発覚したのだ
ウーマンリブの闘士
先の岸部氏が回想する。 「私が見る限り、二人は仲が悪かったわけでもなかったんですよ。シェパードは猫好きで10匹くらいは飼ってたかな。千もすごく可愛がっていて、自分が作ったレコードレーベルには『キャッツタウン』って名付けたくらいだしね」 離婚の原因についてはこう推測する。 「千は、17歳で東京に出てきて、20歳の時、『星影のワルツ』でいきなりスターになった。誤解を恐れず言えば、非常識の塊みたいな男。それに比べ、シェパードは育ちのいいお嬢さんって感じで、落ち着いた人でさ。常識人なの。二人の関係は、夫婦というより、千が生徒でシェパードは先生みたいに見えたな。年も彼女の方が三つ上だしね。私の前でも、千は彼女にものすごく気を使っている感じだった。そんな時、若くて自分に甘えてくるアマンダさんが現れて、コロッといっちゃったんだな。千から離婚の報告を受けた時は、『別れない方がいい』と言ったんだ。まあ、彼の気持ちも分からないわけでもないけどね」 かつてシェパードにインタビューした芸能レポーターの須藤甚一郎氏によれば、 「二人が結婚した72年頃は、アメリカ発祥のウーマンリブ運動が盛んな時代でした。実は彼女もウーマンリブの闘士だったんですよ。広尾の自宅を訪ね、話を聞きに行った。すると、彼女はしきりに千の話をしたがりましてね。マサオはジェントルマン、インテリジェントだとか。何度も言うものだから、彼女の方が千に“お熱”なんだと思ったものです」 ウーマンリブの血が騒いだのかどうかは定かでないが、千が自宅を出ると、彼女はカリフォルニア州の裁判所に財産分与の訴訟を起こした。さらに膠着状態が続くと、今度はボブ・ディランの夫人の離婚訴訟でも巨額の財産分与を勝ち取った辣腕弁護士ミッチェルソン氏を雇うなど、常に先手を打ち続けた。 もっとも千の所有する不動産のほとんどは、彼の持つ会社の名義になっていた。その上、一度買った不動産は基本的に売らないというポリシーゆえ、千のもとには、資産とほぼ同額の借金があったという。そのため、お互い離婚の意思はさっさと確認できたものの、財産分与はもめにもめ、離婚成立(88年7月)まで約2年の歳月を要した。 「当時の報道だと、財産分与とかお金の話ばっかり注目されたけど、別にシェパード自身は財産だけが欲しかったわけじゃないと思うね。彼女にすれば、『千を育てたのは私』という自負があったはず。若い千に、世の中の常識とかルールを教えて、いっぱしの大人にしたのに、さも自分の才能だけで財を築き上げたみたいに思われるのが許せなかったんでしょう」(先の岸部氏) 結局、シェパードは広尾の豪邸に居住する権利などを含む50億円を手にした、と報道された。岸部氏は「実際にはそんなにもらってないと思う」とは言うものの、シェパードが巨額の財産分与を受けたことは確かである
さて、その後の二人は、どんな人生を歩んだか。
千は愛人だったアマンダさんと再婚し、4人の子どもがいる。
不動産業は、90年の大蔵省の総量規制に端を発したバブル崩壊のあおりをモロに喰らい、千の借金は総額2千億円にまで膨れ上がった。
結局、千の会社は2000年に経営破綻、彼自身も個人版の民事再生手続を申請した。
シェパードは、離婚後も千の事業に振り回された。 「広尾の家は離婚後も千の会社名義のままでした。経営破綻した際、彼女は立ち退きを命じられ、アメリカに帰国しています」(『千昌夫 驚異の蓄財術』の著者・段勲氏) それでも、シェパードは日本が好きなようで、 「10年ほど前、明治神宮に初詣に行ったら偶然シェパードに会いました。アメリカ人と再婚して今も日本に住んでいる、と言ってましたよ」(先の岸部氏) シェパードにすれば、もしもバブル崩壊後に離婚していたら、巨額の財産分与どころではなかったはずである。彼女にとって、あのタイミングで離婚を成立させ、巨額のお金を手にしたことは、“不幸中の幸い”だったといえよう。
デイリー新潮編集部
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千昌夫はバブルで一時、資産2千億円 360億円の離婚訴訟でいくら払ったのか(デイリー新潮) - Yahoo!ニュース